野田内閣誕生

岡田克也幹事長は、期限付きの自民党との大連立を進めたい意向を表明したが、自民党は従来の民主党の政策を撤回することを求めた。11年7月22日岡田は自民党公明党の幹事長と会談し、マニフェストの見通しの甘さを謝罪する文書を提出した。これに対し鳩山グループは謝罪の撤回を要求した。

8月9日菅首相は岡田に退陣三条件とした第二次補正予算、特例公債法案、再生可能エネルギー措置法が成立した時に辞任表明すると伝えた。8月26日上記法案が成立し菅は退陣を表明。民主党は菅に代わる新代表を選ぶ選挙へ突入し、財務相野田佳彦、前外相・前原誠司農水相鹿野道彦経産相海江田万里、前国交相馬淵澄夫の5人が立候補した。

鳩山グループに所属する海江田を、小沢グループも支援した。海江田は小沢に対する党員資格停止処分解除を公約のなかに掲げた。また前原は3月に発覚した在日韓国人からの違法献金以外にも数名の韓国人から、献金を受けていたことが代表選最中に明らかになり急速に党内の支持を失った。

8月29日に行われた代表選は第一回投票では海江田が143票、野田が102票、前原が74票だったが、決戦投票では前原と野田が連携し、鹿野もこれに同調したため野田が215票を集め、177票の海江田に逆転し代表に選ばれた。海江田を担いだ小沢が敗北したことから、選挙に強いという神話に翳りがさすことになった。

代表就任時の野田の「もうノーサイドにしましょう」発言は国民から好感を持って迎えられた。その言葉通り30日、小沢に近い輿石東を幹事長に起用し、幹事長代理には中堅で自らグループを率いる樽床伸二政調会長には仙石由人に近い前原、国会対策委員長には鳩山グループ平野博文をあてた。小沢グループを排除した菅と異なり挙党体制を敷いたのである。

9月2日の組閣では、官房長官に岡田を起用しようとしたが小沢グループが反発したため、野田側近の藤村修をあてた。9月2・3日に読売新聞が行った世論調査では、内閣支持率65%と高い値を示し、8月の菅内閣支持率18%から急反転した。外交音痴の鳩・菅政権にウンザリしていた私も、松下政経塾出身の野田に大きな期待を寄せた。しかし、野田は組閣早々閣僚の失言に悩まされる。

小沢側近の一川保夫防衛大臣の認証式前、記者団に「安全保障に関しては素人だが、これが本当のシビリアンコントロールだ」と述べ国民を唖然とさせた。また9月8日夜、経産相鉢呂吉雄が非公式の取材の場で、防災服の袖を記者につける仕種をして「ほら、放射能」と語りかけたことが問題となり、9月10日辞表を提出翌日受理され、早くも野田内閣の綻びとなった。

そもそも、民主党は小沢主導の数だけを頼みとする寄り合い所帯で、自民党寄りから共産党寄りまで主義主張に隔たりのある議員の集合体であった。加えて政治主導による各府省の大臣・副大臣大臣政務官の任命には多くの人材を必要としたが、経験の浅い一年生議員が多数を占めるというジレンマがある。野田は党内融和を優先するあまり、当選回数を重視する順送り人事を断行し、人格や能力に疑問符が付く閣僚を生み出す結果となった。


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