野田改造内閣

菅内閣から野田内閣への交代は支持率の上では成功したが、その間も大震災復興の遅れに伴う課題は継続して残り、帝国データバンクの調べでは大震災の影響を受けた5千社のうち、事業再開できたのは半数に留まった。また、復興事業に伴う建設機械運転などの求人はあるものの、これまでと同じ仕事に就くことは困難であった。

11年10月に入っても大震災復興の足取りは遅く、瓦礫の処理も進まない状況であった。さらに原発事故の影響は大きく、除染がどう進んでいくのか明確にならず、財源の見通しも立たないなか、思い切った復興計画を策定するのが難しかった。避難者数は9月22日時点で7万人を超えており、すべての仮設住宅が完成するのは11月以降という状態であった。このため宮城県福島県では学校や公民館などの避難所で800人が生活していた。

その後、復興庁設置法案が閣議決定され11月1日に国会に提出された。だが、復興庁の権限を、与党は各省庁の施策の総合調整や復興施策の立案にとどめるとし、自公は復興に関わる各省庁の権限を集めたスーパー官庁にするとして対立し進まなくなる。他方、三次補正予算は成立したものの自民党谷垣禎一総裁は、民主党の支持率が思わしくないことを受け、一転、対決姿勢に転換し始めた。

自公は12月9日参院一川保夫防衛相と山岡賢次消費者及び食品安全担当相の問責決議案を可決させた。一川は軽率な発言が安全保障に支障をきたし、山岡はマルチ商法との関係が指摘された。自公両党は両名が出席する委員会などには出席しないとしたため、臨時国会を延長しないで閉幕せざるを得ない状態に追い込まれ、重要法案が審議されない状況となった。

12月16日野田は福島原発冷温停止状態に入ったことを宣言し、工程表のステップ2が達成できたと宣言した。被災者が元の住居に戻れないなかでの収束宣言に、地元から強い非難や不満が続出した。福島県知事・佐藤雄平は強い不満を細野豪志原発担当相に訴えた。

野田は12年1月13日一川・山岡両閣僚の交代を含む内閣改造を行った。この改造では岡田克也を副総理兼一体改革・行政改革相に据えて、税と社会保障の一体改革の決意を示した。しかし、読売新聞の調査によれば内閣支持率30%と下げ止まらず、民主党支持率も政権交代以降で最低の16%にまで落ち込んだ。

2月8日原子力安全・保安院は、定期点検により停止中の福井県大飯原発3号機と4号機についてストレステストの一次評価を妥当と判断。これを受けて3月13日内閣府原子力安全委員会もこれを追認した。しかし、これ等の原子力機関に対する国民の信頼は失墜しており、自治体の判断に委ねるような対応では筋が通らない話であった。


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