残虐非道 李承晩----⑦

1952年5月憲法改正して大統領に再選された李承晩は、54年の国会議員選挙で国会の主導権を握ると、四捨五入改憲事件を引起してまで大統領三選禁止条項を廃止して56年5月の大統領選挙で三選を果たした。早速、李承晩は野党民主党の副大統領・張勉の暗殺を指令した。56年9月28日退役軍人による狙撃で張勉は軽傷を負った。(張勉副大統領暗殺未遂事件)

終身大統領を目論む李承晩は、60年の大統領選での当選が不可能と判断すると56年の大統領選で次点だった進歩党・者奉岩をスパイ容疑で逮捕し59年7月処刑した。(進歩党事件) 絶頂期を迎えた李承晩の独裁は、選挙では不正が拡大し警察も腐敗して暴力団が跋扈した。政権党である自由党の不正腐敗や企業との癒着、米国の援助に依存した経済運営も問題となった。さらには市民への弾圧、特に言論統制の強化で京郷新聞を廃刊に追込む等、李承晩の横暴は目に余った。

60年1月民主党の大統領候補・趙炳玉が病気治療のため渡米した時、李承晩は透かさず大統領選挙の投票日を2ヵ月繰上げて3月15日と決定した。趙炳玉は手術後の2月15日死亡したため李承晩の四選が事実上確定した。李承晩は与党の副大統領候補・李起鵬の当選を確実にするために公務員の選挙運動団体を組織し、警察にそれを監視させるなどの不正工作を展開した。

3月15日李承晩・李起鵬の当選が報じられると、特に不正が酷かった馬山では民主党馬山支部が選挙放棄を宣言した。それは不正選挙を糾弾するデモへと発展し市民も参加した。当局はデモ隊に発砲し8人死亡、50人以上が怪我という惨事になった。4月11日馬山の海岸で高校生の遺体が頭に催涙弾を打込まれた状態で発見された。(馬山事件) 馬山事件に抗議するデモは韓国中に飛び火した。

4月18日 高麗大学とソウル市立大学の学生が、国会に押寄せ座り込み抗議をしたが彼等の帰宅途中、暴漢に襲われ多数の負傷者を出した。翌19日 ソウルで数万人、各主要都市でも学生と警察隊が衝突し186人の死者を出した。(4・19学生革命)20日 李承晩は在韓米大使ウォルター・P・マカナギーに最後通牒を突き付けられ、23日「行政責任者の地位を去り、元首の地位だけに止まる」と発言したため民衆の怒りは最高潮に達した。李承晩は各主要都市に非常戒厳令を布告した。

25日 全国27大学の教授団は李承晩退陣要求を呼びかけ、ソウル市民3万人が立上った。それは一気に韓国全土に広がった。26日 パゴダ公園にある李承晩の銅像が引き倒され、国会でも大統領の即時辞任を要求する決議が全会一致で採択された。同日午前 李承晩はラジオで「国民が望むなら大統領職を辞任する」と宣言した。長年培われた恨の歴史をもつ韓国民は、権威も権力も失った李承晩をここぞとばかり虐殺するであろう。5月29日早朝 李承晩は秘かにハワイへ旅立った。

政治学者グレゴリー・ヘンダーソンは「大日本帝国統治の歴史は、朝鮮の政治意識や構造を変えることはなかった。李承晩政権は朝鮮の伝統的政治体質を引継ぐもの」と指摘している。李氏朝鮮以降、事大主義という劣等感と小中華思想という優越感、二つの矛盾した感情のバランスを500年に亘って維持してきたために、韓国人(北朝鮮人も)は些事であっても激高し易い民族に陥っている。だからどんな大統領が現われても、法律よりも感情を優先させる情治政治にならざるを得ない。


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