恨の民族

高麗の一武官であった李成桂は1388年明の遼東半島攻略を命じられた。親明事大を標榜する李成桂は軍を翻して政権を奪取した。禑王・昌王・恭譲王を次々に弑逆し、1392年自ら即位して李朝を建国した。そして高麗朝の仏教を弾圧し明に倣って儒教を重んじた。李成桂は7人の後継者に恵まれたが、息子達は王位継承を巡って血で血を洗う抗争を繰返した。李朝両班の謀略によって王権を争うドロドロした500年と言っても過言でない。

1636年 清は李朝服従朝貢、明への出兵を要求した。これを拒むと清は朝鮮に侵入した。(丙子胡乱) 降伏した第16代仁祖は明との断交、王子を人質とすること、莫大な賠償金支払い等々をのんで和議を結び、三跪九叩頭の礼を誓わされた。しかし李朝両班達は非漢民族王朝である清に対しては政治的・外交的には服従しつつ、文化面では「夷狭(野蛮人)に学ぶのは恥」という小中華思想を持ち続けた。小中華思想は西洋のみならず、清の優れた文物の導入を阻害した。

以下はマリ・ニコル・アントン・ダブリュイ著「朝鮮事情」の記述である。「朝鮮の貴族(両班)は至る所で、まるで支配者か暴君の如く振舞っている。大両班は金が無くなると、使者を送って商人や農民を捕えさせる。その者が金を出せば釈放されるが、出さない場合は両班の家に投獄され、食物も与えられず鞭打たれる。彼等が農民から田畑や家を買う時は、殆どの場合支払なしで済ませてしまう。しかもこの強盗行為を阻止できる守令は一人もいない」

両班が何らかの官職(たとえば守令)に就くと、彼は総ての親戚縁者、最も遠縁の者にさえ扶養義務を負う。もしこれに充分な誠意を示さなければ、貪欲な者達は自ら金銭を得るために様々な手段を使う。彼の留守の間に彼の部下である徴税官に金を要求する。拒否されると徴税官を脅迫し厳しい拷問にかけ、ついには要求の金をもぎ取る。後に彼がこの事件を知っても目を瞑るだけである」

韓国政府はこの伝統通り、慰安婦強制連行・性の奴隷を捏造してまで日本政府に強請・タカリを続けたが、最近、その嘘がバレて世界の嘲笑を買う結果となった。また、韓国大統領が任期を満了すると起訴されて死刑判決が出されたり、自殺する大統領も現れた。大統領本人がクリーンであってもその権力を悪用した一族の汚職・不正が後を絶たないためだ。今後、李明博元大統領や朴槿恵大統領がどういう運命を辿るか見ものである。

次は呉善花著「韓国併合への道」からの抜粋である。「両班はいくつかの派閥のどれかに所属して官職獲得闘争に血道をあげた。この闘争が何百年間に亘って繰返されてきた。そのため派閥間、各一族間の敵対関係が永続化してしまった。これらの争いは敗北した指導者の抹殺を以って終焉する。この抹殺は敵対派の官職を剥奪した側がさらに国王を動かして、死を宣告させたり無期の流刑に処したりするのである」

李朝では先祖が受けた屈辱を子が晴らすことは、子孫にとって最も大きな道徳的行為であった。父親の仇を討たなければ父子関係が否認され、その子は私生児となり姓を名乗れなくなる。たとえ父が合法的に殺されたとしても、父の仇あるいはその子を父と同じ境遇に陥れなければならない。父が暗殺された場合も同じ行為が求められる。この場合、犯人はたいてい無罪とされる」--以上

極貧のどん底に叩きつけられた朝鮮半島の民衆は、雑草やドングリを食み辛うじて生きてきた。身内や周囲の死は日常茶飯であった。疫病が蔓延して夥しい死も見てきた。悲しみ、憎悪、怨念が500年に亘って培われ、彼等の心は荒びに荒び恨を生きるためのエネルギーとする民族となった。彼等が白米を食したのは、日韓併合が10年位経過してからである。病院建設や衛生教育が普及し、併合時の平均寿命25歳が45歳となった。東夷(日本)の統治を恥とする李承晩は、過去の歴史を改竄し己の失政を隠蔽して、韓国民の恨を反日に特化した。


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