閔妃暗殺犯は朝鮮人だった

イザベラ・バードは英国の旅行家で世界各地を旅して多くの旅行記を残した。1878年(明治11)6月来日し「日本奥地紀行」を著した。「上陸して最初に私の受けた印象は浮浪者が一人もいないことであった----私はそれから奥地や北海道を1200マイルにわたって旅したが、世界中で日本ほど、婦人が危険にも無作法な目にもあわず、全く安全に旅行できる国はないと私は信じている」

「ほんの昨日のことであったが、革帯が一つ紛失していた。もう暗くなっていたが、その馬子はそれを探しに一里も戻った。彼にその骨折賃として何銭かあげようとしたが、彼は『旅の終わりまで無事届けるのが当然の責任だ』と言って、どうしてもお金を受け取らなかった」などと文明開化後の日本を活写している。

彼女は1894年1月と11月、95年11月、97年の計4度訪朝し「朝鮮奥地紀行」を著した。「私は北京を見るまではソウルを最も不潔な都市、紹興の悪臭に出会うまでは最も悪臭の酷い都市と考えていた」「ソウルの25万人の人々が地べた、迷路のような路地で暮している----路地はその家が出す固体や液状の廃物を受入れる緑色のヌルヌルしたドブとその汚れた臭い縁によって一層狭められている」

「ソウルには美術の対象になるものが何も無く公衆用の庭園も無く劇場も無い。ソウルには古い時代の廃墟も無く図書館も無く文学も無い。宗教に対する無関心からソウルは寺院なしの状態で放置されている。一方、未だに支配力を維持しているある種の迷信のために、ソウルには墓が無いままにされている」と李氏朝鮮末期の状況を伝えている。

ところが、1997年韓国の延世大学が出版した韓国版イザベラ・バード朝鮮紀行には「当時のソウルは清潔で人々はとても快適かつ豊かに暮らしていた」「日本軍が韓国を支配中に、建物をドンドン壊していった」などと記し、バレバレの捏造・改竄をしている。私はひょっとすると、1895年10月に起きた日本人による閔妃暗殺も捏造ではないか?と疑ってウィキぺディア(乙未事変)を検索し、実行犯が朝鮮人だったことを悟り長年の肩の荷を下した。

ナント!事件の目撃者が純宗(閔妃の子)や高宗(閔妃の夫)だったのである。純宗は訓練隊第二大隊長禹範善が「国母の仇である」とし、それを現場で目撃したと証言している。禹も「王妃を殺害した」と自ら漏らした。高宗も「我臣僚中不逞の徒」と述べている。事件直後の朝鮮政府の見解は「朝鮮国内で行った裁判で興宣大院君(高宗の父)首謀とする判決が出たことや、閔氏一族の横暴や怨嗟の声が国中に満ちていることを憂慮していた朝鮮人らが積極的に参加した」としている。

愛妻を父親に殺され屈辱に塗れた高宗は、この事件が日本人壮士らによって殺害されたこと、朝鮮人の逆賊が日本人を補助していたと歪曲して英文雑誌に掲載させた。この事件で大院君は失脚した。3年後に大院君が死亡した際略式の葬儀しか行われず、しかも儒教を重んずる高宗は敢えて父の葬儀に参列しなかった。だが、日本における歴史研究は高宗の意思を重視して、閔妃暗殺は駐朝鮮公使・三浦梧楼らの計画に発し、その指揮によるとした。

私は、上海の大韓民国臨時政府第二代大統領だった朴殷植が「閔妃暗殺犯は大院君だ」と指摘している点に注目した。朝鮮人民族意識を鼓舞する目的で書かれた朴の主著「朝鮮独立運動之血史」は、例えば東学党の乱(甲午農民戦争)で日本軍は朝鮮人農民を30万人虐殺した等々トンデモナイ捏造によって日本人を貶めている。朴こそ「閔妃暗殺犯は三浦梧楼だ」と書かなければならない。


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