満州事変前夜----①

1928年6月第二次北伐が終り支那統一が実現した後、蒋介石・国民政府の外交部長・王正延は革命外交を打出した。革命外交とは相手国を無視した支那側の一方的な通告で不平等条約の全てを廃棄し無効にするという外交政策で、日本が日露戦争で獲得した旅順・大連(関東州)と満州鉄道の権益も対象とされた。この政策が満州事変勃発の直接の原因となる。

蒋介石面従腹背する張学良は1928年12月22日、ソ連との共同管理下にある電話局を奉天警察隊に占拠させ、中東鉄道の社旗を降ろし青天白日旗を掲揚した。ソ連は協定違反と非難したが、張学良は交渉を拒絶し「然るべき時に中東鉄道の排他的支配を回復する」という声明を発表した。

29年5月27日張学良はハルビンソ連総領事館を捜索して共産党員39人を逮捕した。7月18日ソ連は国民政府に国交断絶を通告。スターリンが警戒していたのは日本の関東軍の介入であったが、日本が中立の立場をとることが明確になったため、軍事侵攻が決定された。

ソ連軍は自衛を理由に満州国境地帯に侵攻し29年10月には本格的な戦闘が開始された。張学良軍は死傷者3,900人、行方不明1,800人、捕虜6,900人に上る大敗であった。12月22日原状復帰を内容とするハバロフスク議定書が調印されソ連軍は撤収したが、その後も支那側は議定書の無効を主張し再交渉を要求し続けた。(中ソ紛争)

ロスチャイルド等戦争屋は1929年10月24日ニューヨーク・ウォール街での株価を暴落させた。(暗黒の木曜日)1920年代にFRBの指示で、銀行が株券を担保に貸出しを増やしたために株価が高騰しバブルとなった。株価がピークを迎えるとFRBは政策を180度転換し銀行の貸出を抑えたのである。流通する資金量を故意に減らしたことが4年間にわたる世界大恐慌の原因となった。

この恐慌により16,000もの銀行が倒産し、その殆どをモルガンとロックフェラーが吸収・合併していった。また紙くず同然となった企業の株券も両者に買占められた。融資を返済できなくなった農家も広大な土地を没収されたため米国は飢饉に陥った。そして、これらの土地もウォール街の金融財閥の関係企業に買占められた。

懲役10年という罰則のもと米国国民全てが金貨や金塊を財務省で紙幣と交換することが義務付けられた。だが1939年末には兌換紙幣が廃止され紙幣と金は交換できなくなった。こうして合法的に金が強奪された。

日本銀行総裁を経た井上準之助浜口雄幸内閣(1929年7月〜)でも蔵相に就任した。彼はFRBの指示に従って緊縮財政を推進し、30年金解禁を実施した。旧平価で解禁したため円高となり輸出は不振、正貨の大量流出を招いた。このため企業の操業短縮と倒産、賃金引下げなど深刻な恐慌状態に陥った。生糸・繭価の暴落や30年の豊作による米価低落(豊作飢饉) 31年と34年の東北大飢饉で農家経営は破綻し、娘身売りが激増し小学校では欠食児童が増大した。(昭和恐慌)

ソ連は当時第一次5ヵ年計画(28〜32)で重工業優先政策を推進中で世界大恐慌の影響を受けることは殆どなかった。これによりソ連は農業国から工業国へと発展したが、農業は荒廃した。


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