満州事変前夜----②

ソ連追出しに失敗した張学良は、その矛先を日本の権益と日本人に向けた。まず満鉄を自滅させるために、満鉄の平行線(打通線・奉海線)の輸送単価を安価に設定して運営させた。満鉄は30年11月以降毎日赤字続きに陥り、社員3,000人の解雇、昇給一ヵ年停止、家族手当・社宅料の半減、新規事業の中止、枕木補修一ヵ年中止、破損貨車の補修中止、民間事業への助成中止など大幅な支出削減を余儀なくされた。

さらに張学良は、満鉄の付属地に柵を巡らし通行口に監視所を設けて、大連から入る物品に輸入税をかけ付属地から持ち出す物品にも課税した。そして「盗売国土懲罰令」を制定し、これを過去に遡及して多数の朝鮮人農民が耕作する土地を奪った。これに抵抗して投獄された朝鮮人は約530人にのぼった。

加えて30年31年にわたり林業、鉱業、商業等の日本人企業に対して、満鉄付属地外の営業許可を一方的に取消し、警察に事業妨害を徹底させ経営不振に陥めた。奉天総領事から遼寧省政府に交渉しても「南京政府に直接交渉するように」と相手にされず、南京総領事が南京政府に交渉しても音沙汰無しであった。危機感を抱いた関東軍も再三にわたり交渉するが聞入れられることはない。

30年5月30日劉少奇統制下の満州省委員会の指令による、東満州の間島で暴動が発生した。総勢5,000に及ぶ共産パルチザン部隊は日本領事館、停車場、機関車、電灯公司、鉄道などに放火し日本人44人が殺害された。元ソ連軍特殊宣伝部長補佐官・レオニード・ワーシンは「北朝鮮首席金日成も共産パルチザンとして東満州一帯で活動していた」と証言している。

28年〜30年の在満州朝鮮人支那人との紛争は100件を超え、国民党政府は31年2月「鮮人駆逐令」によって朝鮮人を追出そうとした。行き場を失った朝鮮人農民は長春の西北20キロの万宝山に入植しようとしたところ、吉林省政府の警官隊は退去を求め、同年7月遂に支那人農民が大挙して朝鮮人を襲撃した。この事件を朝鮮の新聞が過大に報じたために、朝鮮半島で反支那暴動が起り華僑の店舗や家屋敷が襲われ100人以上の支那人が殺害された。

31年6月27日陸軍参謀・中村震太郎大尉と他3名が、大興安嶺の東側一帯を調査旅行をしていた際、張学良配下の屯懇軍に拘束され銃殺される事件が発生した。関東軍は新聞掲載を禁止して調査員を派遣し事件の核心を掴んだが、外交交渉に委ねられた。支那側は調査を約したが事実無根、日本人の捏造・宣伝と明言したため、8月17日関東軍は記事解禁し奉天特務機関が事件の全貌を公表した。

裁判もなしに殺害され遺体は焼かれて埋められ金品が奪われたという報道に、日本の世論は沸騰した。支那の非道を糾弾し幣原喜重郎外相の協調外交を軟弱外交と非難する声が高まり、日支間は緊迫した空気に包まれた。日本の世論を背景に関東軍武力行使の機会を窺うようになった。ことの重大さを認識した支那側がこれを全面的に認め「実行犯の関玉衛を取調べた」と日本側に伝達したのが9月18日の午後に至ってからで既に手遅れだった。この日の午後10時20分頃柳条湖事件が発生した。

こうして日本は米国及びスターリンの罠に嵌ってしまったのである。国際法やマナーを踏みにじって恥じぬ支那の伝統は、中国共産党習近平政権によって充分発揮されるようになったが、経済運営の失敗で共産党崩壊が近いと言われている。次なる軍事独裁政権は、前政権が締結したすべての国際条約、さらには国際的な借金まで「無効だ!」と主張するであろう。これが前政権を全否定し、墓まで暴く易姓革命思想なのである。


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