満州事変前夜----③

1927年に「現在及び将来に於ける日本の国防」で満蒙領有論を構想していた石原莞爾中佐は28年10月10日関東軍作戦主任参謀に就任し、翌29年5月14日板垣征四郎大佐が関東軍高級参謀となった。29年5月19日日本陸軍内に歩兵第3連隊長・永田鉄山大佐を中心とする佐官級の幕僚将校による一夕会が発足した。その主力メンバーは以下の通りである。

陸士15期河本大作(29年4月予備役) 16期永田鉄山・小畑敏四郎・岡村寧次・板垣征四郎 17期東条英機 18期山下奉文 21期石原莞爾 22期鈴木貞一・牟田口廉也 23期根本博 25期武藤章・田中新一・富永恭次らであり、彼等は天皇の統帥大権を侵し政党政治を蹂躙し、蒋介石スターリンルーズベルトの挑発にマンマと乗せられ、日本国民を戦争の惨禍に導いた大バカ者共である。

彼等は、陸軍人事を刷新し諸政策を強力推進する、つまり25年に軍縮を断行した宇垣一成派を追放すること。満蒙問題を優先して解決すること。驚くことに陸軍大学校校長・荒木貞夫中将、第一師団長・真崎甚三郎中将、近衛師団長・林銑十郎中将の3大愚将を盛り立てることを決議したのである。

その2日後の29年5月21日参謀本部内国戦史課長・岡村寧次大佐が、全陸軍の佐官級以下の人事権を持つ人事局補任課長に就任した。岡村は早速、人事局長に航空本部総務部長・小磯国昭少将が任命されるよう奔走したが失敗に終った。しかし30年8月永田鉄山大佐が陸軍の予算配分に強い発言力を持つ重要ポストである軍務局軍事課長就任に成功した。

29年7月関東軍石原莞爾中佐は「国運転回ノ根本国策タル満蒙問題解決案」と題する私案を作成した。その骨子には「満蒙問題ヲ解決シ得バ支那本部ノ排日亦同時ニ終熄スべシ。満蒙問題ノ積極的解決ハ単ニ日本ノ為ニ必要ナルノミナラズ多数支那民衆ノ為ニ最モ喜ブベキコトナリ。即チ正義ノ為日本ガ進デ断行スベキモノアリ。歴史的関係等ニヨリ観察スルモ漢民族ヨリモ寧ロ日本民族ニ属スベキモノナリ」と記している。

私は、軍事の天才と言われる石原が何故、軍事力を使わずに満蒙問題を解決しようとしなかったのか?女真族の聖地満州を国民政府・蒋介石支那の領土だと何故必死に主張するのか?それを考えて貰いたかった。蒋介石の希望通り認めてやれば済むことだったのである。それなりの条件、例えば日本の国家予算の100年分位は要求してもよかったのではないか? 

日本の敗戦後毛沢東満州に多数の漢人男性を送り込んで洗国、所謂混血を重ねた結果、女真族はこの世から姿を消してしまった。同じことがチベットでもウイグルでも繰返されていることを世界は非難しなければならない。そして米国に支那系の大統領が誕生することも充分あり得るのである。だからこそ有名無実化した日米安全保障条約に縋り付くのをやめて、自分の国は自分で守る決意をしなければならない!               

30年11月永田鉄山大佐は満州出張の際、石原莞爾中佐から敵陣を曲射弾道によって直撃を加え破壊する24センチ榴弾砲2基の送付を依頼された。巨大な榴弾砲は31年7月奉天の独立守備隊兵営内に据え付けられた。このように一夕会系幕僚が陸軍中枢を引き摺り、内閣を引き摺って満州事変を推進していったのである。


レース結果共鳴チェック