満州事変----①

1931年9月18日午後10時20分頃、奉天郊外の柳条湖付近満鉄線路上で関東軍自作自演の爆発が起きた。現場は3年前の張作霖爆殺事件の現場から、僅か数キロの地点である。関東軍はこれを張学良軍による破壊工作と発表し直ちに軍事行動に移った。関東軍は柳条湖近くの支那革命軍の兵営「北大営」を占拠し、翌19日までに奉天長春・営口の各都市を占領した。

9月20日関東軍は特務機関の謀略によって吉林に不穏状態をつくり、21日居留民保護を名目に第二師団主力を吉林に派兵し、朝鮮軍の導入を画策した。30年に朝鮮軍司令官に就任した林銑十郎中将は21日独断で混成第39旅団に越境を命じ、午後1時20分関東軍の指揮下に入った。これは文字通りの統帥権干犯行為である。天皇は事後承認の書類になかなかサインしなかったが、金谷範三参謀総長が参内し越境追認をお願いすると「此度は致方なきも将来注意せよ」と追認に至るのである。

10月8日関東軍爆撃機12機が石原莞爾中佐の作戦指導のもと張学良の拠点である錦州を空襲した。石原は偵察目的としているが25キロ爆弾75個を投下している。関東軍は「張学良は錦州に多数の兵力を集結しており、日本の権益が侵害される恐れが強い。満蒙問題を速やかに解決するために錦州政権を駆逐する必要がある」と公式に発表した。

10月16日秘密結社桜会橋本欣五郎大佐や大川周明らの満州事変に呼応して、若槻首相や幣原外相を殺害し、荒木貞夫中将を首相とするクーデター計画が陸軍中枢に漏れ翌17日橋本をはじめ長勇、根本博らが憲兵隊により一斉に検挙された。合法的な軍事政権樹立を目指す永田鉄山らに極刑論もあったが、橋本の盟友である石原莞爾が陸軍首脳に圧力をかけ曖昧なままにされ、橋本は重謹慎20日、長らは同10日の処分となった。

11月に入って関東軍は北部満州チチハルへの進撃を企図した。しかし、ソ連との衝突を危惧する軍首脳はこれを阻止すべく、11月5日臨時参謀総長委任命令第1号を発令した。つまりこれにより関東軍司令官は参謀総長の指揮下に置かれることになったのである。それでも関東軍は11月19日チチハルを占領してしまった。このまま事態が推移すれば32年4月の定期異動で永田鉄山石原莞爾はじめ一夕会メンバーは枢要ポストから一斉に外される危険が高まった。

柳条湖事件の4ヶ月前の5月8日オーストリアのクレジットアンシュタルトが破綻し、ヨーロッパの金融市場は大混乱に陥った。日本の大手銀行は「為替統制売り」を利用したドル買いと海外支店への送金に走った。この動きで為替相場が一気に円安となるということに気付いた大手銀行や投機筋は、為替差益による利潤を狙ったドル買いを画策。加えて9月21日英国が金輸出を禁止した。井上準之助蔵相の緊縮財政が崩れると見た大手銀行・投機筋は一斉にドル買いに殺到した。(ドル買い事件)

内務大臣安達健蔵は三井・三菱・住友財閥がドルを買い過ぎて窮地に陥っていることを知り、積極財政策を採る政友会と連立内閣を作り、金輸出再禁止によって財閥に巨利を得させようと考えた。10月28日安達は政友会との連立内閣案を若槻首相に提起した。当初若槻は安達の案に賛同したが、井上蔵相や幣原外相らの強い反対を受け断念した。政友会の山本悌二郎鳩山一郎・森恪らは12月4日陸軍の今村均作戦課長・永田鉄山軍事課長・東条英機編成動員課長と密談した。

11月21日安達や中野正剛は連立内閣樹立を目指す声明を発表し、12月9日政友会幹事長・久原房之助と覚書を交わした。12月10日覚書を突きつけられた若槻は安達以外の閣僚と連立内閣反対の方針を確認し安達に翻意を促した。しかし安達はこれを拒否し自邸に籠って再三の閣議出席要請に応じなかった。12月11日若槻は閣議に出席しない安達に辞職を要求したが、安達は単独辞職を強硬に拒否したので止むを得ず内閣総辞職を決定した。この倒閣の黒幕は一夕会と親交の深い中野正剛であり永田鉄山であった。


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