満州事変----②

1925年3月孫文の告別式に国賓待遇で迎えられ祭文を朗読した犬養毅に31年12月13日組閣の大命が降下した。陸軍大臣荒木貞夫が就任した。この背後に軍事課長永田鉄山・政友会小川平吉ルート及び軍事課支那班長鈴木貞一・政友会森恪ルートからの強要があった。早速荒木は皇族の閑院宮載仁親王参謀総長に据え32年1月7日には盟友の真崎甚三郎を参謀次長に置き、参謀本部の実権を掌握した。

31年12月23日荒木は満蒙独立国家の建設を目指す「時局処理要綱案」を策定し、12月17日と27日本土と朝鮮から満州に兵力を増派した。関東軍は12月28日より錦州攻撃を開始し32年1月3日錦州を占領。さらに関東軍は1月28日参謀本部承認のもとハルビンに出動し2月5日ハルビンを占領。3月1日満州国の建国が宣言された。執政に清朝廃帝愛新覚羅溥儀が就いた。中華民国の提訴と日本の提案により国際連盟からリットン調査団満州に派遣された。

32年1月以降上海市郊外に蔡廷鍇が率いる十九路軍が現れ日本軍守備隊が保安防衛を行うなか、1月28日午後一方的に攻撃を受け日支両軍が交戦状態となった。日本海軍は第3艦隊(司令長官野村吉三郎中将)の巡洋艦駆逐艦航空母艦及び陸戦隊7,000人を派遣した。さらに2月2日には金沢第9師団・混成第24旅団を派遣し2月20日日本軍は総攻撃を開始した。2月24日日本陸軍上海派遣軍(司令官白川義則大将)を編成。3月1日国民党軍の背後に上陸し19路軍は退却を開始した。3月3日日本軍は戦闘の中止を宣言した。(第一次上海事変)

荒木・真崎は32年2月には小畑敏四郎を作戦課長に就かせ、4月には永田鉄山が情報部長、山下奉文が軍事課長、小畑が運輸通信部長に転じ鈴木率道が作戦課長となった。彼等は全て一夕会メンバーである。そして宇垣派はすべて陸軍中央要職から排除された。こうして満州のみならず日本国も日本陸軍の一部将校に占領されてしまったのである。

話は犬養首相組閣の31年12月13日に戻るが、大蔵大臣に高橋是清が就任するとその日の内に金輸出禁止とする大蔵省令が出され、12月17日の緊急勅令によって日本銀行券の金貨への兌換は全面的に停止された。これで為替相場は大暴落し、1ドル2円が1年後は1ドル5円となり財閥は巨利を得た。これが国民世論における大手銀行を抱える財閥への非難と軍部の対外進出への支持に転化する一因となった。また犬養首相は満蒙問題平和解決のため12月17日萱野長知を上海に派遣した。

32年1月8日上海の大韓民国臨時政府が派遣した刺客・李奉昌は、昭和天皇が乗車した馬車に向けて沿道から手榴弾を投げつけた。(桜田門事件)犬養首相は責任をとるために内閣総辞職を決定するが、翌9日に天皇の慰留によって犬養首相以下全閣僚が残留することになった。174議席という少数与党を余儀なくされていた犬養は政権基盤の強化を目指し1月21日衆議院を解散した。

32年2月9日J・P・モルガンの代理人民政党幹事長の井上準之助は、選挙応援演説会で本郷の駒本小学校を訪れた。自動車から数歩歩いた時、血盟団の小沼正が近づいて井上に5発の銃弾を撃ち込んだ。2月20日に施行された総選挙では政友会が301議席を獲得する圧倒的勝利となった。血盟団の菱沼五郎は3月5日ピストルを隠し持って、日本橋三井銀行本店の玄関前で待ち伏せし、出勤してきた三井財閥の総帥(三井合名理事長)團琢磨を射殺した。

32年4月29日上海の虹口公園(現在の魯迅公園)で大観兵式と天長節祝賀会が執り行われ、午前11時40分頃大韓民国臨時政府の金九が差し向けた尹奉吉が水筒型の爆弾を式台中央に投げつけた。この爆発で上海公使重光葵は右脚を失い、野村吉三郎海軍中将は隻眼となり、植田謙吉中将は左脚を失い、重傷の白川義則大将は5月26日死亡した。金九は犯行声明をロイター通信に伝え上海を脱出した。


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