満州事変----③

1932年5月15日日曜午後5時半頃警備も手薄のなか、総理公邸に海軍の青年将校らの一団がピストルを振りかざして乱入した。犬養首相は全く慌てず「話せば判る」と将校達を応接室に案内した。暫くして「撃つぞ」「撃て」という叫びが聞こえピストルの音が響いた。(五・一五事件)事件後、総理官邸に駆けつけた「内閣書記官長(現在の官房長官)森恪の態度がおかしかった」と貴族院議員古島一雄は証言している。

犬養首相は満州国の承認を迫る軍部の要求を拒否し、元記者の萱野長知を上海に送って秘密裡に交渉を進めていたが、交渉が煮詰まった段階で森が萱野からの電報を握り潰した。上海公使重光葵も妨害に加わった。また犬養は青年将校の振舞いに憂慮を抱き、天皇に上奏して問題将校30人程度を免官させようとした。これが森を通じて陸軍に筒抜けとなり陸軍は統帥権を侵害するものと憤激したという。そもそも尉官クラス将校の横暴化は荒木陸相自ら彼等と酒席を共にし阿諛追従した結果、軍規が乱れることになったのである。

公邸襲撃の主犯海軍中尉三上卓は海軍横須賀鎮守府軍法会議で裁かれた。当時の政党政治の腐敗に対する反感から犯人に対する助命嘆願運動が巻起こり、判決は極めて軽いものとなり、三上の判決は僅か禁固15年であった。この阿りが36年の二・二六事件に発展することになる。三上は38年仮釈放40年恩赦となり、49年8月ペニシリン等20万ドル相当の密輸事件(海烈号事件)の主犯として摘発される。尚、森恪は持病の喘息に肺炎を併発し32年12月11日50歳で死去した。文部大臣鳩山一郎が看取った。

顧みれば1925年5月14日犬養は率いていた革新倶楽部を政友会に吸収させ、議員辞職して富士見高原の山荘に引き籠った。ところが辞職に伴う補欠選挙に地元岡山の熱烈な後援者が勝手に犬養の立候補届を出してしまったのである。犬養は最期まで滅私奉公を貫き、清廉潔白な政党人として一生を終えた。また孫文は犬養・頭山満梅屋庄吉宮崎滔天等から莫大な援助を受けながら、最後はスターリンの援助に頼った。

32年5月26日元老・重臣達は非常時の名の下に軍部と政党の摩擦緩和のため、五っの内閣で海相を歴任し朝鮮総督を二度務めた斎藤実を首相にし、軍部・官僚・財界・政党から閣僚を出させ挙国一致内閣と称した。犬養内閣の荒木貞夫陸相高橋是清蔵相・鳩山一郎文相は留任となった。リットン報告に先立ち9月15日斉藤内閣は満州国承認と同時に日満議定書を締結した。10月1日リットン調査団は日本政府に報告書を通達した。

リットン報告書は「柳条湖に於ける日本軍の活動は自衛とは認められず、また満州国の独立も自発的とは言えない」としながらも満州に日本が持つ条約上の権益、居住権、商権は尊重されるべきとした。また支那側が主張する「柳条湖事件以前への回復」日本側の主張する「満州国の承認」はいずれも問題解決とはならないとした上で「満州には支那の主権下に自治政府を樹立する。この自治政権は国際連盟が派遣する外国人顧問の指導の下、十分な行政権を持つ」という提言であった。

33年1月関東軍は山海関で日支両軍の衝突発生を機に2月熱河制圧に着手した。張学良ら東北軍閥の財源であるアヘンを奪取しこれを満州国の財源にすることが隠された目的であった。第6・第8師団、混成第14・第33旅団その他の兵力を動員して熱河省へ侵攻し、3月4日承徳を占領。3月10日前後に万里の長城に達した。

33年2月21日日本政府はリットン報告書が連盟総会で採択された場合は代表引揚げを決定した。2月24日軍縮分館で行われた国際連盟総会で報告書は42:1の圧倒的多数で可決・採択された。全権大使松岡洋右は「もはや日本政府は連盟と協力する努力の限界に達した」と表明し総会会場から去った。戦後明らかにされた「昭和天皇独白録」では、天皇は「国際連盟が調停案を出してきたら、それを丸呑みにしても良い」と思われていたという。時には立憲君主を棄てて専制君主であって欲しかったと残念に思う次第である。


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