「江華島事件」から「日朝修好条規」へ

朝鮮国の摂政「大院君」の失脚に伴う内紛に乗じ武力によって開国させようと、明治8
年9月20日日本海軍の軍艦「雲揚」(艦長井上良馨少佐=薩摩)の挑発により、江華島
事件が勃発します。2ヶ月後参議兼海軍卿勝海舟は辞表を提出するのであるが、これは
台湾出兵」「江華島事件」とあいつぐ海軍卿無視に対する抗議辞職であったのであろ
う。


翌年1月軍艦六隻の陣容で使節団(特命全権黒田清隆=薩摩・副使井上馨=長州ら800
名、大半が日本軍兵士)が出発します。この砲艦外交で2月26日「日朝修好条規」が調
印されます。詳しくは片野次雄著「李朝滅亡」をご参照下さい。


しかしこの条規の第一款は「朝鮮国は自主の邦にして、---」とうたい、清国と朝鮮国
との悠久な冊封関係を全否定・無視するもので、日清戦争の直接的な原因となるのであ
るが、明治政府は領土的野心から、この時既に戦争の覚悟を決めていたのであろう。

そして、日本人居留民の治外法権を認めさせ、日本からの輸入品には一切関税をかけさ
せない、日本にとって一方的に有利な不平等条約としたのである。

実質的には「大久保内閣」となり列強の文明ばかりか、無批判に「植民地主義」までも
採り入れ、弱国は侮り、強国にはへつらうダブルスタンダード国家となってしまったの
である。日本人固有の「武士道精神」は何処へ行ってしまったのであろうか?

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