自ら政党政治を抹殺した鳩山の「統帥権干犯」発言

武藤山治の「嵐に向かって窓を開けるようなもの」との猛反対にもかかわらず、浜口
内閣の蔵相井上準之助は、世界恐慌のなか30年(昭和5)1月11日14年ぶりの金解禁を
実施。同年2月20日には金解禁の是非を問う総選挙が行われ与党民政党が大勝します。

しかし、金解禁が正貨の大量流出を招き、企業の操短と倒産など深刻な恐慌状態を引
起し、更に失業した労働者の帰農によって農村の疲弊が加速、生糸・繭価の暴落や昭
和5年の豊作で米価は増々低落し農家経営は破綻。娘の身売りや小学生の欠食が急増
します。軍部の青年将校の殆どは農村出身であり、昭和維新が声高に唱えられます。

31年12月13日犬養毅内閣の蔵相高橋是清の手で、金輸出再禁止が実施されますが農村の疲弊は一朝一夕に立直りません。32年2月9日 井上準之助が、同年3月5日三井
合名理事長 団琢磨血盟団員によって射殺されます。団は金解禁・再禁止でドルを
売買し莫大な利益をあげたため暗殺されたのです。

30年4月22日ロンドン海軍軍縮会議は軍令部の不満を抑えて正式調印されます。その
批准にむけた議会では、野党政友会の鳩山一郎らが倒閣のため、政府の「統帥権干犯
である」と攻撃、同年6月には軍令部長加藤寛治天皇に直接辞表を提出します。

緊縮財政を支持する世論を背景に、浜口内閣は「統帥権も条約締結権も天皇に統一さ
れている。」として議会も枢密院も通過させ10月2日批准に至ります。11月14日浜口
は東京駅のプラットホームで、右翼団体愛国社の佐郷屋留雄に銃撃されます。

桜会」を組織した参謀本部第二部第四班長 橋本欣五郎は31年3月政党内閣を倒し
宇垣一成の軍部内閣を樹立するクーデタ計画が事前に露見し未発に終ります。4月14
日浜口の死去により、民政党若槻礼次郎が後任に選ばれます。

一糸乱れぬ海軍が条約派艦隊派に分裂し、条約派で世界情勢に明るい優秀な人材山
梨勝之助・堀悌吉らが予備役となり海軍を去っていき、艦隊派(強硬派)が要職に戻っ
てきます。

鳩山一郎が軍部の独走を助長する発言をしたことは、余りにも軽率で政党政治の自殺
行為であり、その影響も甚大であった。孫に当る由紀夫の口先だけだった「トラスト
ミー」や「最低でも県外」を思い出さざるを得ない。


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