石油全面禁輸を招いた南部仏印進駐

41年(昭和16)6月22日の独ソ戦勃発は日本の国策を一気に南部仏印進駐に傾きます。
海軍中枢から外された石川信吾大佐は前年11月軍務局第二課長に復帰し南部仏印
駐を強硬に主張。これが米国との戦争となるなら受けて立つと気負って見せます。

天皇は南部仏印進駐は各国に及ぼす影響が大きいと思って反対であったから、杉山参
謀総長に質すと「なんら影響するところはない、作戦上必要だから進駐します」--と

41年7月14日仏印の軍事協力の一環として加藤外松駐仏大使がダルラン副首相に南部
仏印進駐を要求、21日これが承認されます。同日ウェルズ米国務次官は野村吉三郎大
使に、進駐が行われれば従来の会談は無用になると警告。23日の野村の豊田外相宛の
電報は「当方面の対日空気急変の原因は南進にあり」と伝えます。

米国は南部仏印進駐前の日本政府に7月25日米国内にある日本資産の凍結を発令。26
日英国27日蘭印がこれに倣い28日には蘭印が日本への石油供給を停止します。それで
も日本軍は7月28日から31日にかけてカップサンジャック・フォークハイ・バリア・
サイゴン等南部仏印に上陸。8月1日米政府は日本への石油の全面禁輸を発表。

南部仏印進駐は軍事的には無血占領ということで成功したが、政治的には昭和陸軍の
見通しの甘さを浮彫りにしただけで既に失敗していたのである。

参謀本部作戦部長田中新一は、何ら根拠もなしに対米戦を強硬に主張。陸軍省軍務局
武藤章は、太平洋のことは海軍に口火を切らさなければならないと冷静な態度を示
し、海軍の石川信吾大佐は、石油を止められれば戦争だ!と口走ったという。

海軍を日米開戦に扇動した石川は36年欧州、特にナチス・ドイツを視察、米国経由で帰
国しているが、米国の何処を視察してきたのだろうか?石川は見れども見えない典型的な愚将だったのである。


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