日米開戦責任を押付けあう陸軍・海軍

軍部が日米戦争を推進する背景に、ソ連・英国に独軍が絶対勝利するという妄信があ
りました。41年(昭和16)9月3日連絡会議での海軍軍令部総長永野修身は「日米戦争
は長期となると思う----敵に王手で行く手段はない。王手がないとしても国際情勢の
変化により取るべき手段はある」と。情勢の変化とは独勝利を指すがその根拠は不明。

9月6日御前会議が開かれ、中断していた日米交渉を再開するが、十月上旬頃になっ
ても不成立となれば開戦と決めます。体裁だけの誤魔化しでした。天皇は明治帝御製
を詠みあげます。四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらむ
大意=世界が平和であれと願っているのに、どうして波風が立ちさわぐのであろう。

9月18日大本営陸軍部は作戦準備の命令を発し、南方作戦兵力の移動を開始。海軍の
対米戦準備はほぼ九月段階で完了していました。

10月2日のハル国務長官の回答は、日本の中国及び仏印からの全面撤兵と三国同盟
約の実質的骨抜きを要求したもので、野村駐米大使は3日日米交渉はデッドロック
なれる感あり、日本が政策を転向する他対日外交は不変なりと豊田外相に具申します。
この時近衛首相は木戸内大臣に、自分には自信なく進退を考うる他なしと洩らします。

10月14日午後、武藤章陸軍軍務局長は富田健治書記官長を訪ね「海軍は戦争を欲しな
いと陸軍に言ってくれば部下を抑え易い。海軍がそう言うよう仕向けて欲しい」と申
入れ、富田が岡敬純海軍軍務局長に伝えると「戦争を欲しないとは言えない、首相の
裁断に一任というのが精一杯である」と回答。

海軍首脳部が、終始首相一任と言って自らは戦争反対ということができなかったのも
海軍の石川信吾大佐ら中堅以下が強硬論に傾斜していたのが主たる理由でした。



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