ナポレオンの轍を踏むヒトラー

ドイツ諜報の最大の誤りは、赤軍が一個師団を粉砕されても、すぐ新しい別の師団を
創設する能力を持っていたことを見過ごした点にある。38年のソ連の一般兵役法では、
予備役の召集年齢を50歳に拡大。この施策によって独軍の侵攻が始った時、すでに
最低限の軍事訓練を受けた予備兵力1,400万人を抱えていたのである。

ソ連の重工業が独軍に押収されるのを避けるため、レニングラードウクライナ東部
の工場群をヴォルガ流域・シベリア・中央アジアへ移転します。41年7月〜11月に合
計で1,523工場、うち軍備工場1,360が移転に成功します。この指揮をとった
のは国家工業計画委員会議長代理で後にソ連首相となるA・N・コスイギンでした。

更に輸送機関と発電所ソ連自身によって破壊します。独軍は押収したソ連の鉄道レ
ール網を広軌からドイツの狭軌へ変換せざるを得ず、独軍に持続的な消耗を強います。

41年10月季節の変わり目にソ連を襲う泥濘期に入り、独機械化部隊は当初計画の三倍
の燃料を消費します。冬には機械化部隊が寒気と雪のためオイルが凍結し動かなくな
り騎兵師団やスキー旅団が長距離のゲリラ戦法を展開。膠着状態の戦線を撹乱します。

41年12月5日ソ連軍は反攻を開始します。南北からモスクワを脅かしている、独装甲
部隊を撃退。三週間後にはレ二ングラードから黒海に至る大規模な攻勢へ拡大します。

この反攻は独軍に大きなショックを与え、指揮官の間で戦争は本当に勝てるかという
疑問の声が上がったという。12月8日日本海軍は真珠湾を攻撃し太平洋戦争に突入!

ワシントンでハルらと交渉をすすめていた野村大使は、11月13日付電報で「最近はド
イツ全盛の峠も見えたりと認め--国情許すならば一、二ヵ月の遅速を争うよりも今少
し世界戦の全局に於いて前途の見通し判明するまで辛抱すること得策なりと愚考す」
と意見具申していたのですが---


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