宣戦布告前の真珠湾奇襲

次代の者としてハルノートを読む時、22年の九ヵ国条約・27年の不戦条約に加盟する
日本に満州事変以前に戻れという内容は当然で、日本の侵略は批判されるべきである。

しかし、陸軍内にあっては妥協を許さない強硬論を吐けば、常に一目置かれる存在に
なり栄達するという悪しき体質をもち、軍の中堅以下全部において強硬論はすべて善
で、反対の者は軟弱だと排斥される雰囲気では、ハルノート受入れは不可能なのであ
る。41年(昭和16)12月1日の御前会議で帝国は米英蘭に対し開戦と決定します。

ワシントン時間12月7日(日曜)午後1時19分、日本海軍六隻の航空母艦から発進した
183機の編隊はハワイ真珠湾上空に達し、各飛行場の航空機や湾内の艦隊を奇襲。
一時間後171機による第二次攻撃が加えられ、米艦隊は潰滅的な打撃を受けます。
この日、日本が頼みとしていたドイツ軍はモスクワを目前に猛吹雪の中で後退を開始。

日本政府の回答をワシントン時7日午後1時に手交すべき訓令を受けた野村大使は、
午前10時30分頃ハル国務長官との会見の約を取付けます。しかし暗号解読やタイプが
遅れ、午後2時国務省に着し、暫く待ち合わせして午後2時20分国務長官室に入室。

米国は最初の一発を日本に撃たせ戦争開始の責任を日本側にとらせる方針が徹底していました。これが成功したのです。この通告の遅れは、戦争プロパガンダに徹底的に利用され、日本に甚大な損害を与えるのです。

役人の習癖として、組織防衛のため重大な失敗は庇ってしまう。処罰すれば組織全体
としての失敗を認めたことになるので、処罰できないのである。昭和の最大の痛恨事
張作霖を爆殺した河本大作を陸軍が庇い、その後の陸軍の暴走の端緒を開いたこと
であったが、その時の論理も組織防衛だったのです。

野村大使は真珠湾奇襲を知らされていなかったとはいえ、宣戦布告の主文、一枚だけ
を持って約束通り午後1時にハルと会見すべきであった。気転を利かして欲しかった。


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