侵略の隠蔽!大東亜共栄圏

41年(昭和16)12月8日午前11時45分宣戦の詔勅が発せられ、正午に全国放送されます。日清戦争詔勅には国際法日露戦争詔勅には国際条規という文字がありましたが、この大東亜戦争の宣戦詔勅は、国際法に換え自存自衛の為、蹶然起ってとなりました。

41年1月7日陸相だった東条は「戦陣訓」を上奏。8日の陸軍始の観兵式でこれを全
軍に示達します。国民皆兵の時代で戦陣訓は国民道徳として下達されたも同然でした。
生きて虜囚の辱めを受けず----捕虜になるという恥かしい生き方をするな。天皇のた
めに死ぬというのは名誉の極みである。そのように死ね、というわけなのである。

従って敵軍からの投降兵をジュネーヴ条約に従って捕虜として扱い、その人権を守る
という思考法は皆無で、この思考法と開戦の詔勅国際法の文言がないことと密接な
関係があったのです。欧米の国際法という文明から見れば恐るべき野蛮と写ったこと
であろう。----以上松本健一著「日本の失敗」より

東条政権は、自存自衛だけではアジアの国々の資源を略奪することになるので、侵略
政策を正当化するため、これらの地域の欧米支配を排除し日本を中心とする共存と繁
栄を図る大東亜共栄圏構想を強引に謳いあげ、43年11月には東京で大東亜会議を開催。

が、アジアの人々からは西洋と同種の侵略者と見られます。日本語を話させ、日本の
文化・習慣をそのまま持ち込み、皇民化教育をすすめた責任は余りにも大きい。

しかし、日本兵のなかには敗戦後も帰国せず独立運動に参加した者も多い。インドネ
シアを例にとると三千人近くの日本兵が独立闘争に参じ、千人余がジャングルで死ん
でいる。

このような無名の日本兵こそ「東亜の解放者」という大義のために命を投出したので
ある。----以上保阪正康著「昭和陸軍の研究」より


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