想定外の連戦連勝

41年(昭和16)12月8日未明、日本海軍はハワイ真珠湾の他、シンガポール・ダバオ・
ウェーキ・グアムを攻撃。酒井隆第23軍司令官は12月25日、香港の英軍を降します。

シンガポールを北から攻略するためのマレー作戦は、12月8日未明タイ南部のシンゴ
ラとパタニーに無血上陸。マレー北部のコタバルでは激しい抵抗に遭います。日本軍
は自転車部隊を先頭に南下。翌年1月31日ジョホール水道に到達。2月15日英軍降伏。

南海支隊は12月10日未明グアム島に三方面から上陸。殆ど抵抗なく同日全島を占領。
11日ウェーキ島では米軍の強力な抵抗にあい上陸を断念。23日未明激戦の末全島占領。翌年1月23日未明ニューブリテン島のラバウル市を殆ど抵抗なしに占領します。

12月8日第11航空艦隊はルソン島のクラークフィールド・イバの飛行基地を攻撃し
米空軍戦力の半分を撃破。日本軍は以後一週間に亘る空爆で、制空権を奪取。翌年1
月2日日本軍は南北からマニラ市に無血入城しこれを占領。マッカーサー司令官はコ
レヒドール島からミンダナオ島をへて3月17日オーストラリアへ脱出。

4月9日のバターン半島攻略の際、マリべレスからオドンネル基地(約100K)に移動の
ため行われた米軍捕虜の行進で、虐待と熱病と疲労のため五千人の死者がでたとして
戦後、第14軍司令官本間雅晴中将はその責任を問われて軍事裁判で処刑。5月7日
コレヒドール島要塞の陥落により、フィリピンの全米比軍は無条件降伏します。

豊富な石油資源確保のための蘭印作戦は41年12月16日北ボルネオ上陸から開始され翌年1月11日以降、南ボルネオ、セレベス、アンボン島、チモール島、バリ島上陸占領。
2月14、15日落下傘部隊がスマトラ島パレンバンに降下、精油所を占領。27日米英豪
蘭の連合艦隊接触、スラバヤ沖海戦、28日バタビア沖海戦を連破。蘭印作戦成功の
陰に、独立を求める原住民が日本軍に協力的だったことも見逃せない。

真珠湾の艦船修理のドック・石油貯蔵施設は無傷で、湾外にあった空母・潜水艦群も
無傷でした。戦勝に驕った日本陸海軍は米軍の反撃を二年後の43年と見積ります。


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