一本の滑走路をめぐる争奪戦

42年(昭和17)6月5日のミッドウエイ惨敗の前に策定された米豪遮断作戦行動である
ソロモン諸島の南端の島ガダルカナルに、海軍は7月頃から飛行場建設を始めます。
日本は既にニューギニアのニューブリテン島北東端のラバウルに強固な航空基地を設
けていたから、ここに基地ができると米豪側もおいそれと反攻できなくなるのである。

この飛行場は8月5日にほぼ完成しますが7日には米海兵隊二万人が占領。重巡5隻
を擁する第8艦隊(三川軍一中将)は8日に夜襲をかけ、僅か30分で米豪混成の重巡
4隻を撃沈し軽巡2隻を炎上させる大勝利を挙げますが、無防備となった30〜40隻
の米大型輸送船団を撃破もせず撤退。これは本末転倒!戦略的発想の欠如でしかない。(第一次ソロモン海戦)

大本営陸海軍部は米軍の反攻は早くても43年以降であると手前に都合よく即断。米側
の偵察的な上陸作戦で直ぐに引揚げるものと判断します。二万人もの上陸部隊とは思
ってもいない楽観から兵力の遂次投入という戦術的に最悪の愚を犯すことになります。

8月21日一木支隊(一木清直大佐・約千名)全滅。9月13日川口支隊(川口清健少将・
四千名)撃退される。 10月24日第2師団(丸山政男中将・一万三千名)全軍退却。乗船
していた輸送船が次々撃沈され11月10日上陸した第38師団(佐野忠義中将・一万五
千名)18日総攻撃予定でしたが武器・弾薬不足が甚だしく挫折。

海兵隊は戦史に例のない水陸両用作戦を開発。飛行機を例にとれば陸軍機、海軍機、海兵隊機が三位一体となって、日本機に立ち向かいます。対する日本機は海軍機のみで陸軍統帥部が海軍に航空協力してガ島奪回を決定したのは、制空権を完全に米軍に握られた11月になってからである。

11月18日の大本営命令「陸軍もソロモン、ニューギニア方面に航空兵力を出す」この
いまさらの命令が発せられるまでに、幾千の若い生命が空しく散っていたのである。


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