作戦部長と軍務局長の殴り合い

ガダルカナルの飛行場を米側がフルに使いだしてからは制空権は常に米側にあった。
42年(昭和17)11月10日頃、高速の輸送船11隻で一個師団(佐野忠義中将)と軍需品を
増援しようとしたが、着いたのは4隻でそれも砲爆撃を受け、増援を待つ部隊に補給
は届かず、絶食すでに一週間に及ぶ飢餓状態に陥り、餓島と呼ばれる惨状となります。

開戦当初、軍部は民間の船舶を徴用。それが鉄鋼生産等国内経済に深刻な影響を与え
はじめます。そこで緒戦の作戦が一段落したところで船舶を民需用に戻す計画が、ガ
ダルカナル戦で更なる民間徴用の必要が生じ、陸軍中枢で激しく意見が対立します。

11月16日ガダルカナル奪還に固執する参謀本部は、当初の船舶増徴20万トンに加え
第二師団(丸山政男中将)も潰滅的打撃を受けたとして17万トンを上乗せ要求。12月
5日政府は改めて国策を検討した上で加重な船舶は割けないという最終決断をします。

この報告を聞いた田中新一作戦部長は、陸軍省軍務局長佐藤賢了参謀本部に呼びつ
け、激論の挙句二人は殴り合いの大乱闘となる。翌6日首相官邸で田中は東条に何度
も要求を繰返したが東条は頷かず、田中は激高して「このバカ野郎」と怒鳴った。翌
日田中は南方軍司令部付に転出。田中の後任には東条の関東軍参謀長時代の部下、綾部橘樹が就任。

結局12月31日ガダルカナルに2万の白骨を残して撤収することを決定。この間海軍は
作戦機2千機の消耗を強いられラバウル航空隊は見る影もなくなります。43年2月上
ラバウルの第八方面軍(名将今村均大将)の協力で夜陰に乗じ撤退作戦を完了します。

戦争に負ければ国は滅ぶが、クーデターで国が滅ぶことはない。日米開戦を強硬に主
張した田中新一をいとも簡単に葬った東条を見て、東条には永遠の英雄となるチャン
スがあったのだな―と痛感します。

東条は組閣時、陸相と内相を兼ね憲兵や警察を掌握し、クーデターに備えていました。
参謀総長杉山元は田中のロボットに過ぎないから、充分な根回しをして「平和を希求
する天皇のご意向により、ハルノートを受諾する」と宣言できたのではないか?東条
は陸軍のいや己の面子にのみ捕われ、国家・国民が全くなかったのである。


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