マッカーサーの戦略

日米開戦時の日本のゼロ戦(三菱重工業設計)は世界中が瞠目。航続距離、速度、上昇
能力、操縦性で最も優れた戦闘機でした。42年(昭和17)6月アリューシャンの戦闘で
アクタン島に不時着し操縦者が死亡、殆ど無傷のゼロ戦が米軍の手に渡ります。

米国の技術者がこれに対抗して設計したのがF6Fヘルキャットである。同機は上昇
下降の性能でゼロ戦に勝り重武装かつ厚い装甲をもち性能は米軍の方が上となります。

米軍は二つのルートで攻め上がってきます。マッカーサー率いる陸軍中心の部隊はラ
バウル攻撃からニューギニア東部、北岸沿いに西部に達しフィリピンを攻略する作戦
である。ニミッツ率いる海軍、海兵部隊はサイパン硫黄島、沖縄に至る作戦でした。
両ルートは日本側にとって次の米側の攻撃目標がどこか混乱させる効果がありました。

米軍を主力とする連合軍の兵力、資材の85%はヨーロッパ戦線へ、15%が対日戦
に向けられました。つまり日本は連合軍の力の15%が半分ずつ分かれて攻めてくる
のに対して、どの戦場でも圧倒的な劣勢のもとに戦ったのです。

蘭印を占領しインドネシア人に大幅な自由を与え、大本営の不興を買った今村均大将
は42年11月8日ラバウルの司令官(第八方面軍)となります。十万の兵は装備、士気も
高く、食糧は自給態勢をつくり築城にも余念がありません。

しかし敗戦まで十万の精兵は遊兵と化します。マッカーサーは日本軍が制空権を失っ
ているラバウルをバイパスしたからです。初期の目標のフィリピンを回復し日本の石
油ラインを断ち切るという戦略のために不用な戦いを避けたのです。

今村大将は戦後、戦犯として服役したが巣鴨刑務所ではなく部下が戦犯として収容さ
れているマヌス島での服役を希望。マッカーサーは「日本に来て初めて真の武士道に 触れた思い」と感動し直ぐに許可します。宮城県出身


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