ニューギニア戦線の絶望

ガダルカナル攻撃が本格的攻撃だと判った時には、米側は近傍に機械力を駆使して僅
か2〜3日で飛行場を建設して制空権を握り、日本の補給を担う輸送船は沈められる
ばかりで、現地部隊は圧倒的に優勢な敵の前に孤立してしまいます。マッカーサー
42年(昭和17)10月早くも東部ニューギニアへの進攻作戦を開始しました。

このニューギニア島を守るよう命令されたのが42年11月第8方面軍(今村大将)のもと
に新設された第18軍(安達二十三中将・兵力15万とも16万とも)で、戦後帰還で
きたのは幽鬼の如く痩せ細った1万3千人である。

米の公刊戦史にはブナ地区の戦闘は世界一の猛闘とあり、火力10倍の米豪軍に一万
五千の犠牲を強い、44年8月のアイタぺの戦闘は日本兵の驚くべき抵抗と書かれ、米
軍がフィリピン攻撃まで20ヶ月余を費やすことになりました。

日本が降伏し豪軍の戦犯裁判も終わり、残った兵士達の最後の帰還船の予定も決まっ
た後、安達は北面端坐して隠し持っていた錆びたナイフで割腹、死にきれず自らの手
で頸動脈を締めつけて死んだ。

その遺書に十万余の前途ある青年を、飢餓で失ったことを詫び、飢えた将兵達に人間
として堪えうる限度以上の苦難を要求したにもかかわらず、皆黙々として命令を遂行
し「力尽きて花吹雪の如く散りゆく姿を眼前に眺めしとき、君国のためとは申しなが
ら我が胸中に湧き返る思いはただ神のみぞ知るべし」「自分は再び祖国の土は踏まず
十万の将兵と共に南海の土になる」と述べました。

家族には、これからは貧窮のどん底に陥ると思うが、それは国の大変動の場合どの国
にでも起る現実であり、これに挫けずに日本人として恥かしくないように生きて欲し
いと書き遺している。

ラバウルで帰国船を待っていた将兵達は、この遺書が読み上げられるのを聞いて、皆
声を上げて泣いたという。


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