ドイツ軍も兵站に失敗 !

太平洋戦争の期間日米の兵器生産力を比較すると、航空機6万8千機に対し29万機
戦車4千両に対し2万5千両、小銃や火砲は7倍〜10倍、砲弾に至っては日本の76
00万発に対し米国は400億発にも達していました。

独ソ戦に目を転じると42年〜43年にかけて、米国の武器貸与法による大量の援助がソ
連に届きます。アルミ、マンガン、石炭等の原料の他、軍服3400万着、軍靴1450万足、食料450万屯、機関車と車両1万余両、輸送トラック41万両、ジープ5万両を供与。43年には米国は躊躇したが、在米のソ連購買委員会は図々しくもウラン酸化物8屯を要求することもありました。

42年(昭和17)9月のスターリングラード独ソ戦で、駐独大使大島浩はドイツは3ヶ
月以内にソ連軍を駆逐してモスクワに進撃すると伝えます。参謀本部情報部ソ連課は
米国の援助物資を受け冬期になればソ連軍が勝利すると断言します。

スターリングラード戦線では42年11月30日ソ連赤軍が、独軍22個師団の包囲を完成
させ、43年2月2日ドイツ第6軍は14万7千人が死亡、9万1千人が捕虜となって
消滅します。しかしソ連側も戦死15万5千・戦傷33万の損害を代償として払いました。

独軍にとって41年6月から7月の成功のその規模そのものが前進の妨げとなったので
す。緒戦の勝利の驕りが独軍に抑えの利かない楽観論を持たせ、兵站線の伸びきると
ころまで駆立て自慢の装甲部隊を消耗させたのです。

42年11月7日の連絡会議は次の新しい世界情勢判断を決定。戦勢は枢軸側に有利に進
展すると予想し、万難を排して不敗の政戦態勢を確立して、独伊と共に反攻に対処す
れば、ついには米英の戦意を喪失させ戦争目的を達成しうる、と判断します。

日本軍がガダルカナルを撤退し、独軍スターリングラードで降伏した後の43年2月
27日の連絡会議は、ナント!! 前回の判断に変化なしとしているのである。

この重要な連絡会議で永野修身軍令部長嶋田繁太郎海相もミッドウエイ海戦大敗を秘匿。それを知らぬ筈のない東条首相も一切触れないのである。


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