激しさを増す東条独裁

東条首相は「米国民は疲弊している」「世情が厭戦気分になっている」などと常に楽
観的な捏造情報を参謀本部情報部につくらせ海軍軍令部に伝えます。ミッドウエイ大
敗をひた隠す軍令部は、やがて参謀本部情報部の情報に信を置かなくなります。

天皇は独白録で「元来東条という人物は話せばよく判る----田中隆吉(兵務局長)とか
富永恭次(陸軍次官)とか、とかく評判の良くない且つ部下の抑えのきかない者を使っ
たこと又憲兵を余りに使い過ぎたことも、評判を落した原因であろう」と言ってます。

確かに田中も富永も軍人としてはそのポストにふさわしいとは言えない。田中は東条
に媚びるだけで、東京裁判では自らの言を武藤章の言にすりかえるなど偽証をします。

44年、富永も第四航空軍司令官として「私も君らに続く、安心していってくれ」と特攻隊員に出撃命令を出しながら、45年1月17日富永は米軍のルソン島上陸前に徹底抗戦の命令を無視し、何万という部下を置き去りにして、幕僚と共に台湾へ逃げ帰った無責任な軍人なのである。さすがに軍中央も怒って予備役編入(現役クビ)とした。この種のタイプを重用したところに東条の性格の弱さ、視野の狭さがあったといえる。

かって外務省の反対を押し切って興亜院が設けられたが、外務省の出先機関や陸海軍
の現地機関が併存し混乱があったことから、政府は42年8月末大東亜省設立の原案を
作成。9月1日の閣議で東郷外相は外交一元化を乱すと反対。東条は東郷に単独辞職
を迫り、孤立した東郷は辞任。11月1日青木一男が初代の大東亜大臣に就任して発足。

戦局が不利になり国民生活が悪化して反東条的動きが見られると、東条生来の癇癪と
好き嫌いの激しさは一段と酷くなり、陸軍部内でも直言する人物は懲罰的に第一線に
まわされ、そのために東条周辺にはイエスマンばかり集まったといわれる。

東条が満州の関東憲兵司令官の頃、高級副官だった四方諒二大佐を42年8月東京憲兵
隊の隊長に抜擢。43年10月21日東条内閣打倒の運動をしたとして衆議院議員中野正剛
が検挙されるが、25日が臨時議会の召集日であるため26日釈放されます。憲兵二名が
護衛と称して中野宅に泊まり込み、その日の深更中野は切腹して死亡。

四方大佐はその後酒に酔って「中野正剛を殺したのは自分なり」と得意気に語ったという。


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