中国大陸打通作戦

日本軍がビルマや太平洋の各地で崩れかかる事態になっても、依然として陸軍の主力
約100万人は中国戦線を中心とした大陸に釘づけとなります。

汪兆銘政権との戦争協力、日支提携をうたいながら、実際は物資獲得の増大を主眼と
し、現地日本軍は農民から食糧その他の掠奪を続けそのため中国人の抗日感情は強ま
り、43年以降中共解放区の拡大もあって中共軍の掃蕩に明け暮れます。

このように現状維持が精一杯であっても東条参謀総長は、44年(昭和19)春にわかに華
北から華南への縦断路を完成して、満州と南方を結ぶ補給路確保と中国内の米空軍基
地攻略を目的とした大陸打通作戦を命じます。

兵力・武器・航空力の貧困にもかかわらず、洛陽・長沙・衡陽・桂林・南寧などを占
領して作戦は完成します。だが2千数百キロに伸びた戦線の内側から、これまで以上
に強い中共軍の反攻が起り、この作戦は実益をもたらさず破綻。広い大陸に釘づけに
された支那派遣軍は、敗戦時でも100万人を超えていました。

また満州防衛の関東軍は、南太平洋・ルソン・台湾・本土・南朝鮮へ次々に増援部隊
を転出させてどんどん痩せ細る一方となるが、独ソ戦終了前後から満州内の根こそぎ
動員と中国や北朝鮮からの増援で水膨れし、往年の実力を伴わない75万の兵を擁し
ソ連参戦を迎えるのである。

日本がいくら中国を攻めても、結局あの国土の広さには勝てません。日本は国土が狭
いという範囲での発想しかありませんから、長期的には勝てないのです。----陸軍侍
従武官 吉橋戒三中佐


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