米軍の飛び石作戦

既に戦況の主導権は米側にあり日本軍は米軍が選んだ戦場で戦う以外に有効な方法は
持っていません。東条参謀総長や寺内寿一南方軍総司令官はルソン島に及ぶ米軍の西
進を防ぐ檄を飛ばし、米軍の次なる目標はハルマヘラ島であるとかたくなに考えます。

44年(昭和19)年5月北支にいた第32師団(師団長石井嘉穂)が同島に移動。更に姫路、
東京、マニラで編成された精鋭部隊が送りこまれ、北隣りに位置するモロタイ島の守
備隊の一部を同島に戻し、計3万8千の日本軍が配備されます。この内3千人弱の台
湾兵士の多くが勇敢な高砂族だったといわれる。

これを嘲笑うように米軍は9月15日手薄になったモロタイ島に二時間にわたる爆撃を
加え、2万8千の戦闘兵力(ハル少将指揮)は容易に上陸し一か月程で数条の滑走路を
設営。10月10日になると大型飛行機が発着する程になり、モロタイ島の日本軍は終戦
までさつま芋を栽培しながら執拗に戦いを挑み2,494人の内1,724人が戦死。

ハルマヘラ島からモロタイ島へ11回にわたり、切りこみ隊が上陸をめざしたが総て失敗に終りました。

ハルマヘラ島では米軍との直接的な戦闘は起らず日本兵は遊軍と化します。ある日同
島に墜落した米軍のパイロット2名が移送中に逃亡、建物に籠って日本兵と撃ちあい
となり、パイロットが撃ち殺されるという事件が発生。この翌日、米軍機が飛来しこの建物に花環2個を投下して去って行ったという。

米軍はハルマヘラの住民を秘かにオーストラリアに連れていき、無線通信機の使用法
を教えたり、スパイ教育を行って再び島に送り返した。この島には米軍の情報網が完
備されていたのである。日米戦争は米軍の物量と情報力に敗れた戦争だったのである。

そして日本は戦争を軍事行動の枠内でしか理解できなかったと言わざるを得ないのである。---保阪正康


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