杜撰!インパール作戦

43年(昭和18)4月頃から連合軍はビルマで英軍を中心に反攻態勢に入ります。また11
月に開いた大東亜会議に陪席したチャンドラ・ボースの自由インド政府の拠点を固め
インドの独立を世界に宣言しようとの政治的思惑もあり、インパール作戦構想は44年
1月7日東条首相によって正式に認可されます。飛行機は南方にまわされ制空権は殆
ど無いのに、政策によって守勢であるべき戦線を攻勢に転ずる愚を犯したのである。

第15軍司令官牟田口廉也中将は3月8日から三個師団を三方より進め、雨季前の20日間で標高2、3千mの山岳地帯を横断してインパールを急襲するという、平坦地に換算すれば10倍の距離となる極めて杜撰な計画を立案。兵站の不足は現地人と象・牛・馬・羊で補うことで牟田口は反対意見を抑えます。

例年よりも早く雨季に入った前線から、空輸依頼の電報が続々届きます。第15師団
長山内正文中将は撃つに弾なく今や豪雨と泥濘の中に傷病と飢餓の為に戦闘力を失う
に至れり。柳田元三中将の第33師団は作戦中止を主張し督促命令を受けても前進を
渋り作戦全体に重大な影響を与えます。空輸は強力な英空軍に阻まれたのです。

牟田口は山内・柳田両師団長の解任を上申。河辺正三司令官はこの解任を認めると共
に、前線の苦況を直視しない東条参謀総長の命令通り作戦再興を下命。解任を免れ、
敵の食糧を奪いつつ奮戦していた第31師団長佐藤幸徳中将は独断で総退却を決定し、
1万余の将兵の命を救いました。佐藤は軍法会議で堂々と作戦の不当を糾弾、軍は佐
藤が発狂したとして予備役に編入するという事なかれ主義の措置をとります。

7月15日撤退命令が出され兵士達は雨に濡れ、英軍の飛行機や戦車の銃弾に追われ食
糧もなく進んできた道(靖国街道)を戻ります。ノモンハンで負けなかった名将宮崎繁三郎少将が殿を務めたが、結局人的損害は損耗率90%以上、戦死3万、戦傷病4万2千とガダルカナルの4倍以上となった。

惨憺たる敗戦で牟田口は参謀に向って「司令官として切腹してお詫びしたいと思うが
君の意見を聞きたい」と言った。参謀は「責任を感じているなら黙って腹を切って下
さい。誰も止めません。今度の作戦の失敗はそれ以上に値します」切腹を思い止まる
よう言って呉れるのを期待した牟田口は悄然として立ち去ったという。

牟田口は盧溝橋事件を支那事変に拡大させそれが日米戦争の原因となった。しかし戦
後の東京裁判ではA級戦犯にも指定されず責任もとらず66年畳の上で死んだ。77歳。


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