続 国共内戦

国民党は48年3月第二回国民大会を開催。憲法に基づいた総統選挙では蒋介石が選出
され、この時から6年間中華民国の総統となることが決まります。新体制が発足しても国府軍は辛うじて軍事費を捻出できたが、兵士の給与は未払い状態が続きます。

共産軍は国民政府の権威が失墜するのを狙って48年6月から軍事闘争に専念します。
共産軍は47年から人民解放軍と称したが、延安は再び人民解放軍の制圧下に入り、洛
陽や青島も人民解放軍の勢力下に入り、この軍事的敗戦や物価高騰は蒋介石の足元が揺らぐ因になったのである。

48年暮、蒋介石トルーマンに宛てて援助を申出たが、はかばかしい回答は得られません。米政府は不干渉を忠実に守ったのである。蒋介石は東京の中華民国代表部に密かに電報を送り、旧日本軍の優秀な将校に協力を得たいと命じ、白団が結成されます。49年から69年まで日本将校達は台北で軍事顧問団として国府軍の各部隊に入り作戦指導の助言をする傍ら、兵士の教育・訓練などに携わりました。

遼瀋戦役で大活躍した林彪率いる東北野戦軍が南下して天津を解放し、北京防衛にあ
たっていた溥作義将軍を説得して北京を無血開城させます。この事態に国民政府内部
に和平論が擡頭。毛沢東は国民党指導者43名を挙げ第一級戦犯と決めつけ、国民政府
の壊滅を求め和平交渉は蒋介石抜きで進めなければならないと条件を突き付けます。

49年1月21日蒋介石共産党が和平を望むならそれに応じる用意があるとの下野声明
を発表し故郷の奉化県に身を寄せます。4月国共代表による北京会議が開かれたが、
それは共産軍が揚子江を渡河する時間稼ぎに利用されただけで、渡河作戦が成功する
や会談は反古にされ、共産軍の怒涛の進撃は止まるを知らない。会議に出席した国民
党の張治中らは共産党側に走り、南京には戻ってきません。

49年9月21日から北京で開かれた中国人民政治協商会議(全国人民代表大会)で共産党
主導の憲法(臨時)が制定され、毛沢東は「もう我々は外国から侮辱される国家ではなくなった」との演説を行いました。

蒋介石は国民政府の要人を次々に台北に送り、12月7日台北にある総裁弁公庁は国民
政府の首都が台北に移ったことを発表。行政院院長閻錫山らは台北に飛んだが、彼が管理する金の延べ棒が十数箱積まれていて、一度は飛び立ったがその重みで墜落の危険もあるため、再び成都に戻るという一幕もあったという。蒋介石は12月10日朝台北に向った。


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