国内冷戦

ポツダム宣言第10項の「民主主義的傾向の復活強化に対して障礙」となっているもの
とは、旧い封建時代に根をもち明治時代に強化された地主制度・雇用制度である。真
先に着手されたのは農地改革、すなわち地主制度の改革でした。

幣原内閣は46年に計画したが地主の貸付地所有限度を5町歩としたため、GHQは改
革不徹底と指摘し第二次改革に移り、同年10月吉田内閣が不在地主の貸付農地全部、
在村地主の1町歩(北海道は4町歩)を超える部分の強制買上げ、売渡しで解放すると
いう方針は47〜50年に実施され、全小作地の80%が解放され自作農が大幅に創出さ
れました。これにより日本の農民は共産主義運動の浸透から免れたのである。

一方、敗戦直後至るところで労働組合の結成が共産主義者の手で急速に行われ、労働
争議が続発。産別会議の如く共産主義者に指導される労働運動に先手を打つため、幣
原内閣はまず労働組合法を45年12月成立させ雇用制度改革に着手します。

46年産別系労働組合の賃上げや最低賃金制の確定を要求する十月闘争があり、次いで
国鉄労働組合全逓信従業員組合等の官公庁労働組合が、賃上げ、越年資金を要求す
る闘争に入ります。これらの組合は11月26日共同闘争委員会を組織して政府当局と交渉に移ったが妥結せず2月1日にゼネストに入ることを決定。GHQは事前に阻止します。

その後も官公労働者の攻勢は激しく、芦田内閣はマ元帥の指令に応え政令201号を
公布し、第二次吉田内閣は48年11月30日公務員法の改正を行い、ストライキ権と団体
交渉権を剥奪します。続いて12月12日公共企業体等労働関係法が公布され、国鉄、専
売公社、電電公社の三公社のほか郵便、林野、印刷、造幣、アルコール専売の五現業
の労働者のストライキ権が奪われ、団体交渉権が制限されるようになりました。

48年12月GHQは日本経済自立のため経済安定九原則を指示。この原則を実施するた
デトロイト銀行頭取ドッジが来日。24年度の超均衡予算は編成されインフレはおさまり物価は安定したが、予想通り財政引締めは不況を呼び企業倒産が続出します。

特に国鉄9万5千名をはじめとする多数の職員・従業員の首切り断行は労働界に大きな衝撃を与え、この首切りに反対する労働闘争が地域共同闘争として全国各地に頻発し、デモ隊と警察隊との衝突が続発することになります。

49年7月4日国鉄第一次人員整理発表の翌日、下山定則国鉄総裁が常磐線綾瀬付近で轢死体となって発見された下山事件、同15日三鷹駅で入庫中の電車が運転手もなく走り出し民家に突入し、死者6名重軽傷13名を出した三鷹事件、8月17日東北本線松川駅の近くで列車が転覆するという松川事件が発生。世間には共産党国鉄労働組合を非難する声が高まりました。

今日に至るもその真相の判らぬ奇怪な三つの事件について、松本清張はGHQ内部のG2(参謀部第二部作戦部)が共産主義者の犯行に見せかけて、日本国民にその恐怖を煽るために敢行した作戦であると看破しています。


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