食糧危機

戦後日本の経済は総てが荒廃しきっていたが最大の問題は食糧でした。45年7月主食の配給量は一日一人二合三勺から二合一勺に削減され、副食のない食糧事情では一人あたり千カロリー弱で、飢餓ラインといわれる1,640カロリーにも達していない。

原因は45年産米が悪天候に加え、空爆による生産障害のため前年比30%以上の減産であり、敗戦による台湾、朝鮮、満州からの供給も途絶え、政府権威の失墜で農民が安い価格での供出を渋って、戦時中の半分も供出しなかったからである。

45年12月農相松村謙三天皇に拝謁すると「戦争で塗炭の苦しみをした国民に、この
上多数の餓死者を出すようなことは自分には耐え難い。皇室の御物を代償として米国
に渡し、食糧に換えて国民の飢餓を一日でも凌ぐように」との仰せでした。

この天皇のご意向に感激したマ元帥は「皇室の御物を取上げて食糧を提供するなど面
目にかけてもできない。----断じて餓死者を出すようなことはさせぬ。必ず食糧を本国から輸入する方法を講じる」と幣原首相に答えたという。

46年5月1日のメーデー以降「米よこせ」運動が激しくなったその真っ只中の5月16日吉田茂に内閣組閣の大命が降下します。5月21日マ元帥ジープをさし向けて吉田を司令部に招き入れ「自分が最高司令官である限り、日本国民は一人も餓死させない」と約束したのを聞いて官邸に帰った吉田は「さあこれで内閣をつくってもいいんだ」と和田博雄農相や吉田の姻戚である武見太郎らに話したという。

マ元帥は5月中に小麦粉を放出し、6月から7月にかけて20万屯、8月、9月にそれぞれ20万屯の輸入食糧を放出しやっと日本は最悪の時期を乗り切りました。東京都民が受けた配給のうち7月8月は9割以上、6月9月は7割以上が輸入食糧であった。

今でも日本にある親米感情、そして米国に対する信頼感の底にはこの時の記憶がある。


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