昭電疑獄

47年4月25日に行われた総選挙で片山哲を委員長とする社会党が第一党となったが、その議席数は144で、芦田均を総裁とする民主党三木武夫を書記長とする国民協同党との3党連立内閣となった。そのため積極的な社会主義政策を実行できず、石炭国家管理問題などで左派に攻撃されて退陣します。

48年3月10日片山内閣のあとは社会、民主、国協の与党3党がそのままに首相を民主党芦田均総裁に替えた、所謂政権たらい回しによる芦田内閣が成立。が芦田内閣はGHQ内の派閥争いが絡んだ昭和電工疑獄事件で同年10月7日総辞職に追込まれます。

昭和電工は39年にアルミニウムの日本電気工業と昭和肥料を合併して出発し、47年3月追放令にかかり社長森暁以下9重役が一挙に退陣。日本水素工業社長日野原節三が昭和電工社長に突然就任します。日野原は昭電再建を目指し、特別融資のあらゆる便宜を頼むため官界、政界(主に社会党)に派手に金をばら撒き、GHQのGS(民生局)やESS(経済科学局)の高官を連日のように招待します。

これを問題としたGHQ内のG2(参謀部第2部)は、一部日本人を使ってこの情報を在日外人記者に流させ、それを本国に送るという方法で日本の新聞が騒ぐ前に米国内を騒然とさせます。48年1月民自党の高橋英吉田中角栄らは攻撃の火蓋を切り、昭電乗取り、不当融資、不当政治献金、同目的のための不正子会社の存在を指摘します。

48年5月25日警視庁は昭電本社を急襲。前年末の帳簿で宴会費700万円、贈答品費400万円の数字が発覚しました。まず大蔵省主計局長福田赳夫、元自由党幹事長大野伴睦、蔵相栗栖赳夫らが逮捕され次いで副総理西尾末広が逮捕されるに及んで内閣は崩壊。芦田自身も総辞職後、別件の収賄容疑で衆院の許諾を得て逮捕されます。

この事件では、62年11月に栗栖の有罪が最高裁で確定した他は芦田、西尾、大野、福田ら全員が51年から58年にかけて無罪となる。収賄側が無罪となり、贈賄側が有罪となるのは合点がいかない。政治家・官僚に対する寛大すぎる判決は、現在に至るまで数多の疑獄事件を誘発することになる。

結局GSの次長チャールス・ケージス大佐が失脚しアメリカに帰され、G2側の作戦が成功した結果となった。G2としてはGSとの縄張り争い、主導権争いに勝てばよかったのである。


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