仙石由人

10年7月7日官房長官・仙石由人は日本外国特派員協会での講演や記者会見で突如、「韓国への戦後補償は不充分だ」として、新たな個人補償を検討する考えを表明した。日韓両国の個人補償請求問題は65年の日韓基本条約とそれに伴う協定で「完全かつ最終的に」解決されている。

にも関わらず仙石は「当時の韓国は軍政下だった。法律的に正当性があると言ってそれだけでいいのか」と従来の政府見解に異を唱えた。この発言自体、条約・協定締結のために長年尽力してきた先人たちへの侮辱に他ならない。しかも菅内閣は「北朝鮮との国交正常化を追求する」としているが、仙石の解釈に従えば軍事を優先させる先軍政治を掲げる、北朝鮮と国交正常化しても無効ということになる。自己矛盾!

10年11月18日参院予算委員会で仙石は、自衛隊を「暴力装置」と表現した。直後に撤回し「実力組織」と言い換え「法律上の用語としては不適当だった。自衛隊の皆さんには謝罪する」と陳謝した。みんなの党代表・渡辺喜美は「昔の左翼時代のDNAが、図らずも明らかになっちゃった」と端的に指摘した。

仙石は12年1月の講演で、処分保留にして中国人船長を釈放したことについて「私はいまだに、あの時にやったことはすべて正しかったと思っている」と語った。中国漁船衝突事件での対応の誤りが、ロシア大統領の国後島上陸を招いたことへの反省のカケラもないのである。仙石とは一体何者だろうか?

10年1月22日の衆院予算委員会で、自民党小池百合子の質問に仙石は「大学入学の時には日韓基本条約反対のデモに参加した記憶がございます。それから原子力潜水艦が入ってくるので、反対デモに横須賀に行った記憶もございます。東大闘争の時は司法試験に合格した後にこの救援対策に奔走し、ベトナム反戦のデモには相当多く出かけた記憶があります」と述べている。つまり、最初から日韓基本条約に反対していたわけである。

仙石はその後、71年から弁護士活動を開始する。所属していた弁護士事務所の部下に福島瑞穂がいた。90年2月18日衆院総選挙に社会党公認で徳島県全県区から立候補し当選。93年の総選挙では次点で落選。その後社会党が名称変更した社民党を離党し旧民主党に参加。96年10月20日の総選挙では、新設の徳島一区から出馬し当選。以後徳島一区で四回連続当選。

10年6月8日発足した菅内閣官房長官に就任「影の総理」「赤い後藤田」と呼ばれる。菅第一次改造内閣でも官房長官として留任。11月26日仙石の中国漁船問題や暴言を理由に参院では問責決議案が可決された。11年1月14日菅第二次改造内閣官房長官を退任し民主党代表代行に就任。12年12月16日の総選挙では、小選挙区自民党新人・福山守に敗れ比例復活もできず議席を失う。


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