東京裁判

東京裁判は46年5月3日開廷し48年11月12日判決文が朗読され、同年12月23日東条・
武藤・板垣・土肥原・木村・松井・広田計7名の死刑が執行されました。この裁判は最初に筋書きがあって形式的な手続きはキチンと進め、都合のよい証言だけを揃え都合の悪い証言は皆却下して結論を出した「戦勝国によるリンチ」そのものでした。

平和に対する罪を新設(事後法)しその訴因として被告全員は28年から45年の期間、共通の計画又は共同謀議に参画。その目的は東アジア、太平洋、インド洋を日本が支配することであり、日本はそのために数々の不法な戦争を行ったというのである。これは国家の行為について個人に責任を取らせるための強引な理屈と言わねばならない。

ソ連バルト三国フィンランドを攻撃して国際連盟から除名され、ハンガリーチェコ事件により国際連合で糾弾されたその場合でも、非難されるのは国家であって個人ではない。個人ならスターリンが死刑にならねばならないのである。つまり「悔しかったら戦争に勝ってみろ!」ということなのである。

更に人道に対する罪として南京事件ナチスユダヤ人虐殺と同等に扱われました。ユダヤ人虐殺は戦争と関係のない人種絶滅政策である。南京事件は戦争の際の非戦闘員の被害の問題であり、広島・長崎の原爆や東京大空襲あるいは満州におけるソ連軍の暴行と同じ問題なのである。南京事件で20万人以上の被害者が出たというのは荒唐無稽(南京の人口以上の殺害は不可能)で、これを支持した判決は不公平なのである。

東京裁判で歪曲された史観は7年間の占領時代の言論統制でその批判は許されず、5
0年間の冷戦の間、共産主義の影響力の強い日教組新聞労連等がその史観を守る役
割を演じ、日本国民に根深い自虐史観を植えつけました。

52年10月2日キーナン主席検事は日本人秘書山崎晴一に次の書簡を送った。「危険人
物は東条・武藤・板垣です。土肥原を同類と考えません。木村・広田の刑が過酷であったのは遺憾です。嶋田は被告中最も激越な者の一人でした。鈴木・星野は宣告された刑に値する。賀屋の有罪は大きな疑問を抱いております」

またキーナンは禁固7年を宣告された重光葵に「起訴されるべきではなかった」とさえ言っています。重光は38年の日ソ国境紛争「張鼓峰事件」の時の駐ソ大使だったことをソ連検事が重視して起訴を強く要求したのである。

ソ連検事団の真の狙いはスパイ梅津美治郎の口封じであり、自ら仕掛けた張鼓峰事件を日本軍の仕業と印象づけるための重光起訴だったのである。



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