日本共産党の戦術

吉田茂は、46年5月の第一次吉田内閣は「赤旗に囲まれ革命歌の中に組織したといっても過言ではない」と回想している。共産党労働組合の威勢は憚るものがなく、労働争議中の行為は刑法上の責任も問われない状況でした。

労働組合法が45年暮に公布されて以降、38万人だった組織労働者は46年暮には560万人、48年には670万人となり、共産党は労組の3分の2以上を押さえます。飢餓が迫りインフレが昂進するなかで賃上げ・馘首反対を要求し、経営者を吊し上げ脅迫したり、労組が会社の経営を乗っ取るような過激な行動まであった。

マルクス主義林健太郎は「敗戦で極度に生産低下したなかで、経営者を吊し上げて闘争を激化することが国民生活のためになるだろうか。生産を上げて経済力を回復することが必要ではないか」と考えるに至ったと回想している。

260万人を擁する政府・国営企業関係の組合は共闘会議を組織して、47年2月1日を期して無期限ストに入ることを決定。鉄道も郵便も止まるという非常事態である。加えて人民内閣の閣僚予想名簿まで流布されました。

それは松本治一郎を首班とし、内相徳田球一、外相兼文相野坂参三官房長官志賀義雄という、トップだけは松本という部落解放運動指導者を立てて、権力の要所要所は共産党が押さえるという典型的な革命前夜の中間内閣構想である。

1月31日GHQは共闘会議の伊井彌四郎議長を招致して、銃口の下の威嚇と説得でスト中止声明に署名させます。伊井は声涙倶に下るラジオ演説でスト中止を放送しました。

共産党対策の永遠の問題は、共産党が多数を占めているわけでない組織に共産党が浸透してその主導権を握ってしまうことである。共産党の戦術は、極秘工作であるから証拠を残す筈がなく、してやられた側の断片的な体験証言が残されるだけなのだ。

緻密な情勢判断と周到な作戦計画のもとで、目的のためには手段を選ばないレーニン主義の思想に従って、それを実施する強固な組織があってはじめて出来る作戦なのである。


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