造船疑獄事件

日本の海運界は戦前630万屯もの船舶を保有していたが、戦争のため僅か130万屯に激減、それも殆どが老朽船でした。外貨を獲得するためにも早急に回復したい要求は海運業界だけではなかったのである。しかし占領下にある日本は大型外航船の建造は許されなかったが49年頃からGHQが許可するようになったのである。

53年1月一旦国会を通過した法案を海運界は不満とし、もっと有利な法案にして欲しいと各方面に働きかけ修正案を作らせ再び国会に持込み審議となったが、3月吉田内閣がバカヤロウ解散しお流れとなった。再び吉田内閣が誕生し、引続き審議され遂に同年8月「外航船舶建造融資利子補給及び損失補償法」が成立します。

この新制度では海運会社は一隻十億円の外航船を造る場合、米参謀本部の設計に適った計画を申請すれば、七割までは開発銀行が七分五厘の利子で国家資金を貸してくれ、残り三億円は必ず市中銀行が貸してくれる仕組みで、一文無しで十億円の船が財産となって転り込んで来るのである。

更に貨物船だけの利子補給がタンカーにまで拡大され、貨物船は50年12月以降、タンカーは51年12月まで遡って適用されたのである。この修正の結果、原案では13億円で済む筈だった利子補給額は、急に167億円に膨れあがったのである。

この事件の発端は、金融業者森脇将光が特別二等車のリクライニングシートの特許を持つ猪俣功に金を貸しこれが焦げ付いて詐欺の訴えをしたことから始まる。猪俣は山下汽船、日本通運などから多額の借金をしそれを焦げ付かせていた。貸した方は会社に内緒で重役連が勝手に浮貸して利ザヤ稼ぎをやろうとしていたことが判明します。

54年1月7日山下汽船の横田社長、吉田重役が逮捕、家宅捜索から驚くべき「山下メモ」が偶然に出てきたのである。このメモには横田社長らが30数名の政界人と赤坂の料亭で会食しては金銭を贈っていたことが事細かに書き込んであったのである。

造船工業会の丹羽周夫会長(三菱造船社長)、土光敏夫副会長(石川島重工社長)ら71人が逮捕され、同年4月20日最高検首脳は自由党幹事長・佐藤栄作の逮捕について衆院の許諾を求めたが、法相犬養健は吉田首相、緒方竹虎副総理の意向に沿い、検事総長に対する法相の指揮権を発動して21日逮捕を阻止。結局、業界(海運会社・造船会社)と官庁の17人が有罪となっただけで終わった。

これまで世に出た汚職事件は氷山の一角である。事件にならず、陽の目を見ずに済んだ汚職は、表に出たものの何十倍か分からない。決定的なのは、そのたびに莫大な国民の金が掠め取られていることである。今日もこの種の隠密な取引が何処かで行われていることであろう。


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