単独講和

講和の本格的論議が活発になるのは、49年秋にアチソン米国務長官らが対日講和の検討に入ってからで、米英仏など西側諸国だけとの単独(片面)講和か、ソ連など共産主義国も参加する全面講和かという議論で国中を巻き込みます。

吉田首相は冷戦下の現実を見れば単独講和しか可能性はないとの立場をとり、50年5月3日全面講和論者である南原繁東大総長を名指しして「曲学阿世の徒」と非難を投げつけ論戦の火に油を注ぎます。

同じ頃、渡米してドッジと経済再建について会談していた池田勇人蔵相・蔵相秘書官宮沢喜一らは「講和後の米軍駐留を日本側から申出てもよい」という吉田の言葉を極秘に伝えました。6月25日未明に勃発した朝鮮戦争によって全面講和の可能性が決定的に失われます。

51年3月24日中国本土攻撃も辞さないと声明したマ元帥は4月11日トルーマンから罷免され、4月16日羽田から帰米するマ元帥を見送って沿道には20数万の日本人が立ち並んで別れを惜しみ同日衆参両院は彼に対する感謝決議を可決しました。

51年9月8日サンフランシスコ市内のオペラハウスで対日講和条約が49ヵ国によって調印されます。会議に招かれた52ヵ国のうちソ連チェコポーランドは調印を拒否し、中国、台湾はともに招請されなかったのである。日米安保条約には吉田だけが署名。52年4月28日講和条約が発効し日本占領が終結します。

社会党講和条約批准承認を巡って51年10月23日の党大会で乱闘の末、分裂します。右派は「講和賛成・安保反対」で、全面講和論の左派は「両条約反対」であった。

マ元帥解任に伴ってウィロビーも退役し帰国することになり、河辺機関や有末機関を襲った同じ不運が服部機関を見舞います。吉田はマスコミを使って服部を叩くだけでなく彼の部下を保安隊の幹部候補から外したりします。

07年7月26日時事通信は「服部卓四郎ら吉田茂暗殺・クーデターを計画」という記事を掲載。これは辻政信が中国人将校の情報源を通じてCICにこのような情報を流し、吉田の心胆を寒からしめて溜飲を下げたということである。服部―辻―児玉誉士夫は戦前、戦中、戦後を通じて強い結びつきがあり、児玉は敗戦直後結党された自由党の産みの親であり、パトロンなのだ。服部や辻が自由党総裁吉田を暗殺する筈がないのである。


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