服部機関

日米開戦時陸軍が大成功を収めたマレー半島上陸作戦の立案者は、大本営参謀本部作戦課長服部卓四郎大佐と同作戦課兵站班長辻政信である。この作戦を高く評価していたGHQのG2ウィロビー少将は服部に白羽の矢を立てます。

歩兵第65連隊長服部は中国撫順で敗戦を迎え、46年5月ウィロビーの指令により帰国し「森」と名乗り、同年12月復員庁第一復員局史実調査部長となる。服部は47年5月からGHQの歴史課に招かれ戦史の編纂だけでなく、対ソ連中国防衛計画の立案と服部機関を作り、将来の日本国防軍の編成の研究と人材のリクルートをも行うよう命ぜられます。

秘密結社ともいうべき服部機関は全国各県に代表を置きその下に5、6人の人員を配置。服部はその人脈と復員局で得たデータを活用して、旧日本軍の軍人のなかから国防軍の幹部となるべき人材400名を選抜。後にジョン・フォスター・ダレスが吉田首相に国防軍創設を要求するが、その根拠が服部機関の極秘計画であった。

吉田は服部機関はじめ宇垣機関、河辺機関等々の軍閥による再軍備要求を悉く拒みます。ジョーゼフ・ドッジによる超緊縮予算の影響による失業者は、朝鮮戦争直前までの一年半に43万人となり、中小企業の倒産が相次ぎ、経済復興が第一と考えます。

50年6月朝鮮戦争が勃発し日本に駐留している米軍は国連軍の指揮下に入り朝鮮に出動していく事態となり、マ元帥は吉田内閣に再軍備を促し同年8月警察予備隊が設置されました。

警察予備隊設置までの動きに旧軍復活を目論むウィロビー・服部ラインとそれに抗するGS(民生局)ホイットニー・吉田ラインの激しい対立があり、結局マ元帥は後者を支持するという断を下します。吉田は警察予備隊本部長官に香川県知事増原恵吉、同中央本部長に林敬三を指名。シビリアンコントロールを確立しようとしたのである。

服部はノモンハン事件の大敗を隠蔽し、参謀本部作戦部長田中新一と共に日米開戦を強硬に主張した。開戦後はガダルカナルでの兵員遂次投入、ルソンからレイテの作戦変更、第9師団(沖縄守備隊の中核)の台湾派遣等々、責任もとらず反省もしない彼の拙劣な作戦によって如何に多くの将兵が命を失ったか----釈然としない。


レース結果共鳴チェック