朝鮮人虐殺の真実------①

今日流通している関東大震災(1923年9月)関係の専門書の大部分は「流言飛語のために自警団等が朝鮮人を虐殺した」という前提に立って書かれているが、朝鮮人襲撃事件が決して流言飛語などという絵空事ではなく、実際に襲撃があったからこそ住民と自警団が自衛的に彼等を排除したのである。(工藤美代子著 関東大震災朝鮮人虐殺」の真実より)

19年1月21日李王家の高宗が68歳で急逝した。毒殺ではないかという囁きが漏れ出した。韓国併合時代である。日本人が真っ先に疑われた。同年3月1日李王時代の貴族両班・元軍人・コミンテルン・米国宣教師に唆されたキリスト教徒等が「独立万歳」を叫び、やがてそれは朝鮮全土に広がる暴動に発展した(三・一独立運動)これは米国即ちロスチャイルド等による、日本人と朝鮮人との分断作戦(デバイド・アンド・ルール)に他ならない。

同年4月10日上海に亡命していた抗日運動家達は、フランス租界内に大韓民国臨時政府を樹立した。20年12月李承晩は密かに米国から上海に渡って同政府の大統領に就任した。まもなく李承晩は派閥の対立に失望し半年足らずで上海から去って行った。その後、金九・呂運亨・安昌浩らが要職に就いた。三・一独立運動の嵐は日本内地への朝鮮人流入を促進した。在日朝鮮人の人口推移をみると、19年28,272人が22年59,865人、23年には80,617人と急増する。

以来、朝鮮人の犯罪が新聞に載らない日はないほど事件が多発する。新聞の見出しを拾うと、15万円強奪の不逞鮮人の片割れ神戸にて捕わる(大阪朝日20年2月)、首相邸を襲はんとした鮮人の大陰謀露顕 爆弾数個と陰謀書類(神戸20年4月)、在阪鮮人の宅に爆弾数個を発見(大阪朝日20年10月)、変名して早大に入り上海間島方面と連絡を取る(大阪朝日21年3月)

不逞鮮人崔の自白から判明した事実 内地在住の一味も知れた(神戸又新日報21年11月)、大仕掛の武器密売 拳銃一万挺、挺弾九十万発(大阪毎日23年5月)等々報じられ、日本国民の恐怖感はいやが上にも増大していった。ついに大韓民国臨時政府は摂政宮(昭和天皇)の暗殺指令を発した。決行日は摂政宮の成婚日23年11月27日である。

ところが23年9月1日午前11時58分32秒、相模湾(北緯35.1度、東経139.5度)を震源とするM7.9の関東大地震が発生した。神奈川県・東京府を中心に千葉県・茨城県から静岡県東部までの内陸と沿岸に甚大な被害をもたらした。「朝鮮人が襲撃する」という説は横浜から始まったとされる。以下は横浜での目撃者の談話である。

交通機関の全滅は元より徒歩さえも危険極まりない。況や不逞の鮮人約2千は腕を組んで市中を横行し、掠奪をほしいままにするは元より、婦女子二三十人宛を拉し来たり随所に強姦するが如き非人道の所行を白昼に行ふてゐる。(略) 遂には監獄囚人全部を開放し看守の指揮によりてこれが掃蕩に当らしめたので大戦闘となり、鮮人百余名を斃したが警備隊に十余人の負傷を生じた模様である」(河北新報23年9月5日)


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