毛沢東の原点

中国共産党はその初期から殺戮を繰り返していた。彼等は階級闘争と称して資本家や地主、その家族など少しでも裕福な者達を目の仇にし労農階級の敵として殺すのである。党員の中には殺人や焼打ちに嫌悪する者もいたが、その時には彼等自身に殺人を行わせ二度とその土地に戻れないようにして強制的に引きずり込むのである。この方法はソ連共産党からの直輸入で指導したのはソ連留学を経た中国共産党幹部である。

しかし、コミンテルンが指令するロシア革命方式=都市労働者による蜂起は、失敗続きで党勢が衰えます。これに対し反主流派の毛沢東共産党中央やコミンテルンの方針に逆らい、農村を拠点として農民を組織し革命の中核にと考えます。国民の80%以上が農民であり農村の把握こそ巨大な政治勢力の誕生を意味すると悟っていました。

31年毛沢東江西省瑞金に拠点を移し、都市部から追出された共産党勢力も糾合しながら、国民党(蒋介石)に追われ大陸内部へ逃げ込みます。陜西省延安に至る長征の途中、貴州省遵義での会議で、ついに毛沢東中国共産党の代表に選ばれます。

中国国民党は当初、勃興する民族主義の波に乗って勢力を拡大していくがその支持基盤は社会の最下層まで届きません。これが国民党の弱点である。37年毛沢東が仕掛けた盧溝橋事件を契機に抗日民族統一戦線が結成され再び国共合作が成立する。こうして国民党は共産党の持つ大衆基盤を我が物としたのである。

しかし、国民党が大衆化を進めれば進める程共産党への依存度を強くせざるを得ず、共産党との提携に積極的な者達と否定的な者達が、孫文亡き後の権力闘争も絡んで抗争に発展します。党の支持基盤を支えるために他党の力をあてにするような政党は、時間の差こそあれ必ず滅亡するのである。

毛沢東は抗日戦では徹底的に現実主義路線をとり、少ない兵力で多くの成果が挙げられるゲリラ戦を展開して兵力を温存。来るべき国共内戦に備えていたのである。莫大な米国の援助を受け圧倒的な軍事力をもつ蒋介石は、地主一家を殺害して奪った土地を多数の貧農に分け与えながら強力な支持基盤を勝ち取った毛沢東の政治力・軍事力に大敗し台湾に逃げ込む。

かくして毛沢東は49年10月1日中華人民共和国の建国を宣言。目的実現のためには自国民を平然と抹殺する恐ろしい国家が出現したのである。


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