プラザ合意

プラザ合意を実施したのはベーカー財務長官である。彼は来日し85年6月22日中曽根首相、竹下登蔵相とそれぞれ会談。中曽根は著書『天地有情』で言うように「貿易黒字削減は、このままではダメだから円安を円高にもっていかないと、いつまでも続くと考えたわけです」とベーカーの要求をのんだ。

9月22日ニューヨークのプラザホテルで開いたG5(先進5ヵ国蔵相・中央銀行総裁会議)がドル安誘導に合意。(プラザ合意)当時1ドル241円70銭が翌86年7月には155円と激しい円高に日本の経済界は悲鳴をあげる。

プラザ合意後、一貫してドルが下落したが、行過ぎたドル安が米国のインフレ圧力を増す懸念が台頭し、ドル暴落に歯止めをかける必要があって87年2月パリの旧ルーブル宮殿でG7(先進7ヵ国蔵相・中央銀行総裁会議)が開催された。(ルーブル合意)

本来はドルを切下げれば済む話であるが、レーガン大統領は「ドルを切下げると国民の支持を失う」と考え主要非ドル通貨の上昇を求めた。主要非ドル通貨でないアジア諸国の通貨はそのままだったため、この時から日本製品はアジア製品に対して競争力を失い、中国、韓国が優位に立ち、日本企業は安価な労働力を求めASEAN諸国等に進出。そのため日本経済の空洞化が始まり、雇用が激減するのである。

現在、円高は25年以上続いている。プラザ合意を担当した大蔵省は、通貨問題は解かるとしても、それが日本企業にどんな影響を与えるか充分に理解できる人々ではなかった。しかし通貨問題は大蔵省の専管事項だとして通産省など他の省庁と協力して対応する体制をとらなかった。残念なのはそうした状況が今日まで続き将来も続くであろうことである。


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