小沢面接

海部内閣の発足当初の主題は政治改革である。政治改革が具体化に向ったのは、リクルート事件によって高まった政治腐敗根絶の声に応じ、自民党が竹下内閣末期に政治改革委員会(会長後藤田正晴)をつくったあたりである。委員会は89年5月22日付で5年後に完成する小選挙区比例代表並立制を意味する政治改革大綱を発表した。

宇野内閣は6月28日第八次選挙制度審議会を発足。同審議会は海部内閣に大綱が示唆していた並立制導入と政治資金の規制強化案を答申。しかし自民党は党勢の復調に安心して政治改革熱は冷め、法案化は進まなかった。小選挙区制によって議席が減る野党はこぞって並立制に反対であり、自民党内にも強い反対意見があった。

海部にとって政治改革こそがリクルート事件で傷を負った安倍晋太郎宮沢喜一、中曽根派を継いだ渡辺美智雄ら派閥領袖の復権を阻んで、自分の内閣を永続させる基礎であった。海部は91年7月10日に選挙制度を並立制に変える法案を閣議決定、8月5日開会の臨時国会への提出に漕ぎつけた。

衆院には政治改革特別委員会が設けられたが、9月30日小此木彦三郎委員長は与野党の反対論の強さを考慮、審議日数の不足を理由に廃案にすることにした。海部は「重大な決意」で事態を打開したいと表明、解散をにおわせた。海部を支えた竹下派は解散反対と海部総裁の続投不支持を通告。海部は10月5日総裁再選への立候補を断念した。

海部後には宮沢、渡辺、安倍派の後継者三塚博が名乗りを挙げた。竹下派会長代行の小沢一郎は10月10日年齢で上回る派閥の領袖たる総裁候補を自分の事務所に呼びつけ、次期首相を品定めした振舞いは傲慢であると批判された。私は得意満面の小沢面接をTVで見て、小沢の政治家失格を痛感しました。背景に竹下派会長金丸信が小沢に派閥を譲ろうと意図するようになり首相再登板を狙う竹下登との確執があった。

総裁選の前に宮沢の当選は確定し、宮沢内閣は11月5日に成立したが閣僚、党役員人事を竹下派に任せるなど、二重権力構造が最初から露骨であった。


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