天皇訪中

宮沢内閣の政策課題は、海部内閣から続くPKOと政治改革であった。PKO協力法案は91年12月3日衆院を通過したが参院で継続審議となった。92年カンボジア和平の進展に伴って、自衛隊派遣を最初の舞台としたい政府は同法案の成立を急いだ。

PKOのうち停戦監視など軍事行動を伴うPKF本体を凍結することにするなど自公民三党共同修正案が92年6月9日未明参院を通過した。社会党共産党は記録的な牛歩戦術で抵抗、衆院でも徹夜国会が続いたが15日に可決成立した。社会党は成立に先立って141人の同党所属衆院議員の辞職願いを出したが、結局うやむやに終る。

この年7月26日投票の参院選では、自民党が70人当選したが依然として参院全体の過半数には遠かった。この参院選では92年5月に前熊本県知事・細川護熙がつくったばかりの「日本新党」が比例区から4人を当選させたのが目立った。

しかしこの選挙の投票率が50.7%と参院選史上最低を記録したことが衝撃的であった。原因として、政治に対する不信感の強さは無視できないと思われた。これ以後93年総選挙や地方選挙などで史上最低の投票率が次々と記録されていく。

89年4月15日北京の学生達はデモやストライキを組織し当局に腐敗反対、政治改革、民主化の実行を求めた。6月4日戒厳軍は学生や市民に発砲し、天安門広場から排除。その結果300人余の死亡者を出し多数の指導者が逮捕され学生運動の責任を問われた。その一方米国はじめ西側諸国は中国当局を厳しく非難し、経済制裁や政府高官訪問禁止等の措置を発動した。(天安門事件)

日本国内に賛否両論が強まるなかで、天皇皇后は日中国交樹立20周年にあたる92年(平成4)10月中国を訪問。中国が国際社会に復帰するキッカケをつくった。宮沢はのちに天皇は政治利用するものだと開き直り、中国側も天皇訪中を利用したのだとその事情を明かしている。(当時の銭外相の回顧録『外交十記』より)

天皇は「自分が訪中すれば中国の反日感情は収まると聞いて訪中したのに、収まるどころか反日感情は高まるばかりではないか」と05年春に中国全土で起こった反日暴動の際に嘆いておられたという。

次回「佐川急便事件」は参院選終了後の7月22日に掲載致します。


レース結果共鳴チェック