佐川急便事件  

92年、東京地検特捜部が摘発した史上最大の特別背任事件とされる東京佐川急便事件が、竹下派を直撃した。一つは9月22日の同社元社長・渡辺広康の初公判などで明らかになった竹下派暴力団との結びつきである。87年の自民党総裁選で竹下が総裁になったとき、ほめ殺しというやり方で竹下を攻撃した右翼団体に、金丸信が広域暴力団稲川会の前会長石井進に、中止工作を依頼していた事実が表面化したのである。

もう一つは、金丸が東京佐川急便から5億円の裏金を受取っていたことが8月22日付朝日新聞に報じられたことで、金丸は5日後に事実を認めて党副総裁を辞任したが、9月25日金丸が政治資金規正法違反で略式起訴され、罰金20万円との報が流れると世論は憤慨し、政治活動再開を志した金丸は10月14日議員辞職に追い込まれた。

こうした事件をめぐり、また金丸会長の後継人事をめぐり竹下派には内紛が起きた。小沢一郎は金丸に近い渡部恒三奥田敬和らと共に羽田孜を擁立、竹下直系の小渕恵三を推す竹下登橋本龍太郎梶山静六らと対立する。

衆院は数が拮抗していたが、参院は竹下が関与して小渕支持を獲得、10月28日後継会長は小渕に決定した。小沢はこれを受入れず改革フォーラム21(羽田派)を旗揚げし、キャピトル東急に陣取った。小渕グループの拠点は赤坂プリンスホテルとなった。この分裂により平河町にある砂防会館別館三階の経世会事務所は真空地帯となった。事務所の巨大な金庫から13億円が忽然と消えたのはこの頃のことである。

20年の長きにわたり小沢の秘書を務め00年に自由党衆院議員になり、10年3月政界引退した高橋嘉信は「私は小沢の指示で、経世会から世田谷深沢の小沢邸まで派閥のカネの13億円を車で運びました。当時、派閥の金庫の鍵を預かっていた八尋護事務局長と小沢夫人の和子も関わっています」と特捜部に供述している。

08年、小沢が持ち出したのは6億円と言っていた野中広務は、文芸春秋(10年8月号)の立花隆との対談で「運んだ高橋本人が13億だと言うんだからそうなんでしょう。これ程大きな額とは思いませんでした」と述べている。

事件当時、橋本龍太郎の執拗な追及をかわした八尋護は、小沢が経世会を飛び出た後は小沢の金庫番となり、06年に亡くなった時には小沢本人が葬儀委員長となり、人目も憚らず涙を流したという。


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