政治停滞を招いた再編  

金丸信逮捕の捜査からゼネコンによる中央、地方の政界へのヤミ献金事件が次々に明るみに出た。そのため政治改革論議は何度目かの高揚を始める。93年4月には、自民党が単純小選挙区制導入を柱とする政治改革法案を改めて提出、社会・公明両党は小選区・比例代表併用案を軸とする法案をそれぞれ提出したが幹事長梶山静六(小渕派)ら自民党執行部には早期決着に消極的であった。

羽田派は5月の連休明け、改革が実現しない場合は宮沢首相の責任を追及する方針を明らかにした。6月14日梶山が「改革は次の参院選後」と発言、選挙制度の変革を先送りする意向を表明。野党と自民党内の改革推進派は反発し、18日に内閣不信任案が上程され、可決された。羽田派34人を中心に38人が賛成し、他に16人が意図的に欠席して可決したのである。宮沢はすぐ衆院を解散した。

6月22日武村正義鳩山由紀夫菅直人ら10人が「新党さきがけ」をつくり、23日羽田派が36人で「新生党」をつくるなどで、自民党は既に230人に減っており、自民党がこれを回復して過半数を維持することは不可能と思われた。6月24日新生党、社会、公明、民社、社民連の五党首は「非自民・非共産連立政権の樹立を目指す」ことで合意した。

難関は日本新党細川護熙であった。細川は、選挙中に新生党を指して「今まで自民党の中枢にいて権力抗争で自民党から出てきた人たち。改革派と称しているが、いかがわしい人たち」と批判していたからである。

7月18日に行われた総選挙の結果、自民党系は232人と善戦したが過半数には遠かった。日本新党は39、新生党は20増の55、新党さきがけは3増で13、公明党は6増で52、民社党も6増の19だった。大きく減ったのは137から77となった社会党だけであった。それはなぜか?89年ベルリンの壁崩落、90年西ドイツによる東ドイツ併合、91年ソ連邦の消滅等々、冷戦の終焉の結果、日本の政界にも起こるべくして新しい波が起ったまでである。

キャスティング・ヴォ―トを握る日本新党が「非自民」側についたのは、自らを誹謗した細川に接触して「総理の椅子」を提供するという手段に出た新生党小沢一郎の政治技術であった。政権奪取のためだけの数合わせに、こともあろうに社会党と組むという禁じ手を小沢が用いたことは、国家・国民に対する裏切りにも近い無責任な再編であった。このことは今日に及ぶ我国の政治停滞を招いた最大の原因となった。

本来ならこの時、日本の議会勢力は米国依存体質を清算して、独立国家への第一歩を踏み出す形態へと再編成されるのが筋であった。しかし実際は経済の下降とともに米国へのそれまで以上の隷属状態に入り、無気力になり、一年毎に首相が交替するような情けない国家体制となったのである。


レース結果共鳴チェック