政党助成金導入  

細川護熙内閣は93年8月6日成立した。衆院議長に初の女性、社会党土井たか子が就任したのも時代の変化を印象づけた。敗戦直後にA級戦犯で逮捕寸前に服毒自殺した近衛文麿は細川の母方の祖父である。8月10日の記者会見で太平洋戦争は「侵略戦争」であったと首相として初めて明言し、アジア諸国に新鮮、明快な印象を与えた。

新生党代表幹事小沢一郎は内閣とは別に、与党の意思決定機関である「連立与党代表者会議」を開き、公明党書記長・市川雄一(一一ライン)とともに政権の主導権を握ろうとし、官邸主導を目論む官房長官武村正義と対立する。

細川内閣の課題は政治改革、具体的には選挙制度を並立制に変えることであった。しかし、94年1月21日参院本会議では野党のほか社会党からの反対票で否決される。直後に細川と自民党総裁河野洋平との間で修正成立させることが合意され、1月29日政治改革四法案は後日の修正を予定し、施行期日を明記しないという形で衆参両院を通過した。

その内容は、小選挙区選出300人、全国11ブロックの比例区選出200人の並立制を導入した公職選挙法改正と国が政党に年間300余億円の資金を支出する政党助成法などで、正式な修正成立は94年3月4日であった。これに先立って93年12月14日ガット・ウルグアイラウンド農業交渉で、コメに関する貿易の国内市場を部分開放することに合意し、自民党政権時代からの大きな懸案を二つ片づけたことになった。

80年に刊行された「人間 小澤佐重喜」の一文で小沢一郎は「政治献金の悪弊は特定の個人・法人から献金を受けることで癒着が生じ、政治そのものが歪められることにある。」

「政治家個人・政党に対しても現在の10倍位の資金を国庫から支出し、そのかわり政治献金は一切禁止するという制度を採用しなければならない。要する費用は約一千億円である。国民一人当り年間千円にしかならない」と訴えていた。しかし小沢は、政党助成金導入とセットだった筈の企業・団体献金廃止は、政党支部を受け皿にするという抜け道を用意した。

細川は94年2月3日未明、突然記者会見し消費税3%を廃止し、税率7%の国民福祉税を新設することを表明したが、与党の社会党やさきがけの反対で翌日撤回した。この事件は細川の政治家としての未熟さとともに、背後の大蔵省事務次官斉藤次郎や小沢の力の強さを印象づけた。この時、武村は公然と「国民福祉税構想は事前に聞いていない」と発言し、小沢との対立はますます先鋭化する。


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