村山「自社さ」政権  

北朝鮮から能登半島北方にノドンが撃ち込まれ、カーター調停でこと無きを得た93〜94年、羽田首相が「日本の首相が金日成と膝詰めで談判すれば問題は解決する」という意味の能天気な発言をして世間の失笑を買った。北朝鮮は米国以外とは政治対話をしないという頑なな姿勢だったことはよく知られていた筈なのである。

さて、少数与党政権となった羽田内閣は94年6月25日、94年度予算成立直後に総辞職を表明する。社会党との連立復帰交渉が不調に終り、自民党から衆院に出された不信任案可決が必至の情勢となったためである。羽田が衆院を解散する選択肢もあったが、小選挙区の区割りも決まっていないことから従来の中選挙区制での選挙にならざるを得ない。それが回避された。

6月29日に成立した後継政権は、自民・社会・さきがけ三党連立の、しかも社会党委員長村山富市を首相とする内閣であった。社会党内では自党の委員長を首相にという主張に勝てず、加えて改新・公明側が自民党海部俊樹を離党させて擁立、中曽根康弘渡辺美智雄らが同調したのをみて自社さ政権にまとまった。

首相は社会党委員長であったが、閣僚は自民13、社会5、さきがけ2という配分であった。自民党総裁河野洋平が副総理兼外相、武村正義が蔵相、自民党小渕派橋本龍太郎通産相野中広務国家公安委員長となった。

細川・羽田政権下、野党に回った自民党は党勢の衰滅にさらされ、何が何でも政権復帰を果さねばならないと考え、小沢一郎の用いた禁じ手を二倍にしてお返ししたのである。小沢は政治家人生で初めて野党の立場に落とされた。

村山は7月18日の臨時国会での所信表明やその後の質疑に答える形で、日米安保体制の堅持、自衛隊の合憲、日の丸・君が代の容認等それまでの社会党の主張を180度転換する見解を表明した。

12月10日新生、日本新、民社、公明新党自民党脱党組や無所属の衆院議員178人、参院議員36人が合同して「新進党」が結成された。党首には海部が所属議員の投票で選ばれ、幹事長には小沢が無競争で決まった。

この新進党誕生の陰で、新生党の消滅に伴い、新生党政治資金団体「改革フォーラム21」に新生党本部から5億5千万円が寄付された。同団体は住所も代表者も会計責任者も小沢の政治資金団体改革国民会議」と同一である。政党のために資金援助をする団体に、政党が逆に寄付をするのは、法律上禁止する規定がなくても、どう見てもおかしい。


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