阪神・淡路大震災  

95年1月17日神戸市を中心とする兵庫県南部地方でマグニチュード7・2の大地震が発生、6,500人もの尊い人命が失われ、負傷者は4万4千人、被害総額は9兆6千億円を越えた。

着々と準備を整えて、今か今かと出動要請を待ちわびた自衛隊に、県防災担当の課長補佐から要請が届いたのは4時間余が過ぎてのことで、貝原俊民知事から災害派遣要請があったのはさらに10時間経ってからである。しかも村山首相の指示で派遣人員は3千人に限られた。

加えて在日米軍から空母インディペンデンスを拠点とした救援活動の申入れを拒否し、毛布3,700枚のみを受入れている。驚くのは初の緊急閣議が開かれたのが、28時間後も経過した翌日であった。後に国会で批判された村山は「なにぶん初めての経験でもございますし----」と信じられない釈明を行っている。

村山は地震発生後、5時間半たってやっと小沢潔国土庁長官を本部長とする「非常災害対策本部」を立ち上げている。だがこれは「緊急災害対策本部」に比べて権限もスケールもはるかに劣る。3日後には災害の二字を冠さない「緊急対策本部」を立ち上げた。が、この組織は法的根拠を持っていない。法的性格の曖昧な組織をつくっても強力で実効性のある対策を実施できるわけがない。

この異常さは、社会党一流の反軍・反自衛隊イデオロギーとそれを支える歴史認識の歪みが致命的に足を引っぱったためである。緊急災害対策本部設立の根拠となるのは61年に成立した災害対策基本法である。

同本部の権限は「供給が不足している生活必需物資の配給・譲渡・引渡しの制限もしくは禁止」等強制力を持ちうる強力なものにしたのだった。当時同法案を審議した国会で社会党は「戒厳令のようなものではないか」とか「憲法上許されないのではないか」とか根拠のない抵抗を繰返していた。

国民の生命・財産を守る最高責任者と言うべき首相の地位にあって、無為、不作為のうちに、あたら多数の国民を見殺しにしたのだ。阪神・淡路大震災の犠牲の大きな部分は、天災ではなく村山首相その人の確信犯的な救助放棄による人災だったと言わざるを得ない。


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