村山談話  

95年はポツダム宣言受諾から50年目にあたっていた。村山首相は国会での「戦後50年決議」を画策するが不発に終った。決議の文案は自民党との綱引きで社会党が満足できる内容にならなかった。しかも野党・新進党と与党の一部の欠席、共産党の反対で、衆議院議員全体の賛成は半数以下で参議院では採択さえされなかった。そこで社会党内部にたまった不満のガス抜きも込めて95年8月15日村山談話が発表された。

閣議決定に先立ち、野坂浩賢官房長官(社会党)が有力閣僚や与党幹部に談話の内容を詳しく説明せず「総理の気持ちなので、どうか何も言わずに了解してほしい」と頭を下げて根回ししたという。

その主要部に「わが国は遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は未来に誤ち(正しくは過ち)無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします」とある。

村山の歴史認識は、戦争を複数の国家間の国益と主張の錯綜した対立のプロセスとの係わりで見るという国際的な視点を持たないことである。その結果、昭和の戦争の原因と責任は、専ら日本の国内のみに存在することになり、槍玉にあがるのが軍部の独走となる。

例えば支那事変(日中戦争)の発端とされる盧溝橋事件は、シナ側からの発砲によるものである。蒋介石の秘書・周佛海の回想録に貴重な証言がある。「当時のシナは政府も民間も熱狂的な抗日の声に包まれていた。中国共産党軍閥などの反蒋介石勢力は抗日が倒蒋の唯一の手段だと明瞭に理解していた。彼等は倒蒋のために、全面的持久戦争を叫んだのである」

つまり、スターリンの戦略に従った毛沢東が日本軍にゲリラ戦を挑んだというのが通説で、支那事変を日本側の一方的な侵略戦争だったと単純に決めつけるわけにはいかない。村山談話は、東京裁判史観そのままに日本の戦争を侵略と植民地支配と断罪した。特に米国の原爆投下を犯罪とせず、日本のみを犯罪国家とし謝罪外交を定着させ、日本外交を身動きのとれぬものにしてしまった。

74年3月フィリピンのルバング島から帰国した旧陸軍少尉小野田寛郎が、広島を訪ねて原爆死没者慰霊碑に刻印された「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」を見て「これはアメリカが書いたの?」と言ったという。


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