社会党の衰退

戦後50年の95年は、1月17日の阪神・淡路大震災、3月20日オウム真理教による地下鉄サリン事件など大事件が相次いだ。7月の参院選挙では投票率が44.5%と史上最低を記録し、比例区では新進党が第一党となり社会党は大敗した。自社さの与党三党は過半数を維持したが、村山首相は政権維持の意欲を失い辞意を漏らす。しかし与党側の慰留により続投することとなり内閣改造を行う。

11月蔵相留任となった武村正義は、国債発行残高が458兆円に膨らんだことで、「日本財政危機」を宣言。96年1月5日村山は退陣を表明。前年河野洋平にかわって自民党総裁に就任していた橋本龍太郎が、同じ連立基盤の上で首相に選ばれた。

橋本内閣の最初の試練は住専問題の処理であった。96年度予算に住専処理のための6,850億円が計上された。世論は投機の失敗を税金で穴埋めすることに反発し、野党新進党は国会でピケを張って反対した。この時、不良債権問題の全体像について全面的に情報開示し十分な議論をしなかったことが、90年代末の金融危機の一因となった。

さらに、エイズウイルスが混入している血友病治療薬の非加熱血液製剤が外国では使用中止であったにも係わらず日本では投与され続け、多数のエイズ感染者を生み出した薬害エイズ事件について、厚生省は責任を認めようとしなかった。橋本内閣の厚相菅直人は指揮監督権を振って真相解明に努め、国の責任を認めて被害者に謝罪。これで菅は一躍リーダーとしてのイメージを確立した。

社会党党首に戻った村山は、96年1月党名を社会民主党(社民党)と改め、党勢回復に努めたが、同年9月鳩山由紀夫菅直人が共同代表として結成した民主党に、30人もの社民党議員が移籍した結果小政党に転落する。

社会党が衰退した原因は、せっかく政権参加し大臣や政務次官のポストを多く手に入れたのに、そこに党長老ばかりを送り込んだことである。もし、この時に有望株を大臣や政務次官にしたら、彼等は次代の社会党を支えただろうし、各界から有能な新人をスカウトできたであろう。

村山は長い間苦労をかけた同志に官邸に自由に出入りできる至福の時をプレゼントし社会党の歴史の幕を下ろしたのである。


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